飯田興秀
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正3年(1506年) |
死没 | 弘治3年(1557年) |
別名 | 弥五郎 |
官位 | 大炊助、石見守[1] |
主君 | 大内義興→義隆→義長 |
氏族 | 飯田氏 |
父母 | 父:飯田弘秀 |
子 | 長秀(鎮敦)、義忠 |
飯田 興秀(いいだ おきひで)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。大内義興の下で博多代官を務めた[1]。
出自
[編集]飯田氏は、建久3年(1192年)に土岐頼房[注釈 1]の子・重房が、豊前国安心院永池村[注釈 2]に移ってその地を姓としたのが始まりである[2]。
略歴
[編集]永正3年(1506年)、飯田弘秀[注釈 3]の子[1]として誕生。
興秀は大内義興から偏諱を受けていることから分かるように、義興の頃から大内氏に長く仕えていた。弓の腕に長けていたほか、奉行としての手腕にも優れ、九州地方の軍権を任されたという。豊前寺社奉行のような働きも見られる(『豊前平野文書』[1])。享禄元年(1528年)の義興没後は義隆にしばらく仕えていたが、天文20年(1551年)の陶隆房の謀反(大寧寺の変)の際、陶方に味方して義隆を自害に追い込み、その養子であった大友晴英を当主として擁立。天分22年(1553年)に晴英が「義長」と改名すると、興秀の嫡男が偏諱を賜って長秀と名乗っている。
弘治3年(1557年)、死去。死因については不明であるが、同年には毛利氏による防長経略によって主君・大内義長以下大内氏が滅ぼされていることから、この時に運命を共にしたもの、あるいは、この前年には二人の子が義長の実兄にあたる大友義鎮(宗麟)を頼って家臣となっているので、同行していればその地で亡くなった可能性もある。後者については後述(次項)を参照のこと。
子孫
[編集]興秀の二人の子は、いずれも陶晴賢の滅亡(天文24年(1555年)の厳島の戦い)後の段階で、居城の飯田城(豊前宇佐郡安心院町)に移り、弘治2年(1556年)には大友義鎮の家臣となっている。
嫡男・長秀(石見守、左京進)は大友氏の麾下に属した後に、新たに主君・義鎮から偏諱を受けて「鎮敦」と改名し、天正6年(1578年)10月11日までの生存が確認されている。
次男・義忠(但馬守、法名:麟清)は兄から継承し飯田城主となったほか、義鎮の義兄である田原親賢に属して大友氏の豊前制圧に貢献し、天正15年(1587年)7月10日に病死した。
また、同じく天正15年には、黒田孝高(官兵衛)に仕えていた長秀(鎮敦)の子・重堅(通称:新左衛門)が主君の命で改易され帰農している。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 土岐氏の一族ではあろうが系譜は不明。
- ^ のち飯田村に改称、現在の宇佐郡安心院町。
- ^ 飯田広秀は誤字。義興の父である政弘から1字を賜っているので「弘秀」が正しい。政弘と義興の二代に仕え、筥崎宮が所蔵する文書のうち、「油座文書」には両主君の命で弘秀が作成した奉書が見られる(こちら[リンク切れ] を参照)。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名辞典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 鹿毛敏夫ほか 著、鹿毛敏夫 編『大内と大友 : 中世西日本の二大大名』勉誠出版、2013年6月14日。ISBN 9784585220558。 NCID BB12777220。OCLC 874848832。全国書誌番号:22273354。
- 中司健一 著「大内氏当主側近層の形成と展開」、鹿毛敏夫 編『大内と大友 : 中世西日本の二大大名』2013年6月14日。