飯田精一
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飯田精一 いいだ せいいち | |
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生年月日 | 1872年6月21日 |
出生地 | 日本 山口県 |
没年月日 | 1945年9月15日(73歳没) |
出身校 | 東京帝国大学独法科卒業 |
前職 | 大阪株式取引所理事 |
所属政党 |
(立憲政友会→) 無所属 |
選挙区 | 山口県郡部選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 |
1908年 - 1912年5月14日 1917年 - 1920年2月26日 |
飯田 精一(いいだ せいいち[1] / きよかず[要出典][注釈 1]、1872年6月21日(明治5年5月16日)[2] - 1945年(昭和20年)9月15日[1])は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。
経歴
[編集]山口県出身[1]。1896年、東京帝国大学独法科卒。卒業後は郵便事業研究のためドイツに留学する[1]。通信事務官、逓信書記官、一等郵便局長を歴任する[1]。日本製樽、讃岐電気軌道、加富登麦酒、高野登山鉄道、電気信託、宮島瓦斯、小野田セメント各(株)取締役を務め[1]、大阪商業会議所議員、大阪株式取引所理事となる[1]。
1908年の第10回衆議院議員総選挙において山口県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した[3]。1912年の第11回衆議院議員総選挙で落選[4]。1917年の第13回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して当選した[5]。衆議院議員を2期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙では山口9区から立候補したが落選した[6]。
1937年4月19日、役員を務めていた愛国貯金銀行の背任横領事件において背任罪で懲役1年6月の実刑判決[7]。これにより正五位返上を命じられ[8]、勲三等及び明治三十七八年従軍記章、第一回国勢調査記念章、大礼記念章(大正/昭和)を褫奪された[9]。1945年死去。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 親族よりの情報であるが、出典の提示が求められる。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』50頁。
- ^ 衆議院『第二十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1908年、23頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』50頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』54頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』62頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』69頁。
- ^ 判決要録 第28巻(昭和13年版) 法曹日誌 (四月) 一九頁
- ^ 官報 1940年5月3日 一四三頁
- ^ 官報 1940年5月2日 九〇頁
参考文献
[編集]- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。