飯島彌十郎
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飯島 彌十郎(いいじま やじゅうろう、前名・賢一[1]、1882年(明治15年)4月27日[2] - 1939年(昭和14年)1月24日[3])は、日本の醤油醸造家、政治家(東京府北豊島郡上板橋村長[2]、東京府会議員[1][4])、地主[4][5]、豊島病院管理者[1][6]、実業家。
経歴
[編集]先代彌十郎の三男[7]。「栗原屋」と称し、醤油醸造業を営んだ[1][2][6]。
また浅草土地興行取締役[4]、三東鉱業監査役[4]、東京府北豊島郡郡会議員、同郡農会幹事、同郡教育会幹事、上板橋村長、同村会議員、同村青年団団長、同村安養院信徒総代、同村土木衛生学務各委員長、同村消防組頭、同村農会長などをつとめた[2][7]。
1930年7月、板橋町長花井源兵衛の後を襲い豊島病院組合の管理者に当選した[7]。
人物
[編集]住所は上板橋[1][4][5]。宗教は真言宗[1][7]。趣味は謡曲、将棋[1]、囲碁[7]。
家族・親族
[編集]- 飯島家
飯島家は代々醤油醸造に従事し、当主まで3代である[7]。
- 父・彌十郎[8][9](栗原屋、醤油醸造[10]) - 戸長及び第1代村長をつとめた[7]。
- 妻・すず子[7]
- 二男・寿雄(壽雄[1][11]、1912年 - ?) - 城北電業社代表で、住所は上板橋1丁目[12]。
- 長女[1]
- 二女[1]
- 親戚
- 鈴木義顕(東京市会議員、下赤塚の地主) - 鈴木の母・せきが飯島彌十郎の二女[13]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『大衆人事録 第12版 東京篇』東京56頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月10日閲覧。
- ^ a b c d 『東京府市名誉録』北豊島郡之部(上板橋村)53頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月30日閲覧。
- ^ 「飯島弥十郎氏」『朝日新聞』1939年1月25日、2面。
- ^ a b c d e 『日本紳士録 第41版』東京イの部49頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月30日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第38版』東京イ、ヰの部63頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月27日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第36版』東京イ、ヰの部60頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『自治団体之沿革 東京府之部』人文記 自治功績録101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月26日閲覧。
- ^ 『帝国名誉録』東京府北豊島郡198頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月9日閲覧。
- ^ 『大日本紳士鑑』東京府北豊島郡164頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月24日閲覧。
- ^ 『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』東京府北豊島郡527頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月6日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第45版』東京イ、ヰの部45頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月27日閲覧。
- ^ 『建設法人集大成 建設大臣許可・東京都知事許可 1983年版』752頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月9日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第12版 上』ス93頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年7月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 帝国名誉会編『帝国名誉録』帝国名誉会、1890年。
- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 井出徳太郎編『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』、日本商工営業録発行所、1898 - 1902年。
- 篠田皇民『東京府市名誉録』東京人事調査所、1925年。
- 篠田皇民『自治団体之沿革 東京府之部』東京都民新聞社、1931年。
- 交詢社編『日本紳士録 第36版』交詢社、1932年。
- 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 東京篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
- 交詢社編『日本紳士録 第41版』交詢社、1937年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 交詢社編『日本紳士録 第45版』交詢社、1941年。
- 『建設法人集大成 建設大臣許可・東京都知事許可 1983年版』近代企業リサーチ、1983年。