飛鳥井雅章
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飛鳥井雅章の肖像粉本 | |
時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長16年3月1日(1611年4月13日) |
死没 | 延宝7年10月12日(1679年11月15日) |
改名 | 雅昭(初名)→雅章 |
官位 | 従一位、権大納言 |
主君 | 後水尾天皇→明正天皇→後光明天皇→後西天皇 |
氏族 | 飛鳥井家 |
父母 | 父:飛鳥井雅庸、養父:飛鳥井雅宣 |
兄弟 |
雅賢、難波宗勝(雅宣)、雅章 養兄弟:難波宗種 |
妻 | 烏丸光賢の娘、四辻公遠の孫娘ら |
子 |
雅知、雅直、難波宗量、雅豊、 難波宗尚、中院通躬正室、平松時量室、小川坊城俊広室、吉田兼起室 |
飛鳥井 雅章(あすかい まさあき、慶長16年3月1日(1611年4月13日)-延宝7年10月12日(1679年11月15日))は、江戸時代前期の公卿・歌人。権大納言・飛鳥井雅庸の三男。官位は従一位・権大納言。武家伝奏。飛鳥井家16代当主。
経歴
[編集]慶長16年(1611年)飛鳥井雅庸の子供として誕生し[1]、兄・飛鳥井雅宣の嗣子として16代当主となる[2]。
寛永20年(1643年)に参議、慶安2年(1649年)に権中納言、承応元年(1652年)に権大納言に任じられ、承応3年(1653年)から翌年まで賀茂伝奏、寛文元年(1661年)から同10年(1670年)まで武家伝奏を歴任し、延宝5年(1677年)に従一位に叙された[3]。
明暦3年(1657年)後水尾院から古今伝授を受け、歌壇の中心的歌人として活躍した[2]。和歌御会の歌題提出は飛鳥井家と冷泉家が担当したが、この時期には雅章一人で担当している[2]。
家集に『雅章卿御詠』『雅章卿千首』、歌学書『飛鳥井雅章卿聞書』『尊師聞書』、歌文紀行『吉野紀行』がある[2]。