須永好
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須永 好 すなが こう | |
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生年月日 | 1894年6月13日 |
出生地 | 日本 群馬県新田郡成塚村(現・太田市) |
没年月日 | 1946年9月11日(52歳没) |
出身校 | 群馬県立太田中学校中退 |
前職 | 政治団体役員(日本農民組合組合長) |
所属政党 |
社会大衆党 日本社会党 |
親族 |
須永城次(子息、太田市議会議員) 須永徹(孫、衆議院議員) |
選挙区 | 群馬県 |
当選回数 | 2 |
須永 好(すなが こう、1894年6月13日 - 1946年9月11日)は、日本の農民運動家。衆議院議員。香川県の「伏石事件」、新潟県の「木崎争議」とともに日本三大小作争議の1つとして有名な「強戸争議」を主導した。
経歴
[編集]群馬県新田郡成塚村(現太田市)出身。群馬県立太田中学校を中退し、農業に従事。1920年に近隣の強戸村で小作人組合(農民組合)を結成し、小作争議を指導。1922年から1924年にかけ、農会・村議会]の多数派更には村長までも組合側から送り出す「無産強戸村」の成立にまで至った。
この強戸争議を機縁として日本農民組合に参加し、1937年総選挙に社会大衆党公認で立候補して当選する。その後、農民組合が全国農民組合→大日本農民組合→農地制度改革同盟と戦時体制色を濃くしていく中、新体制運動とは距離を置く。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補したが、落選する。
戦後は日本社会党の結成に参加し、中央執行委員に就任。また、戦前の農民組合が大同団結して日本農民組合を結成すると、初代の組合長となる。1946年の総選挙で国政に復帰するが、議員在職中の同年9月10日、農地制度改革案に関する代表質問中に倒れ、翌日に急死した[1]。
子息の須永城次は太田市議会議員を歴任している。社会党衆院議員だった須永徹は孫に当たる。
人物
[編集]趣味はタバコ。
脚注
[編集]- ^ 農民運動家 須永 好(太田市)