順徳院兵衛内侍
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順徳院兵衛内侍(じゅんとくいんのひょうえのないし、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の女流歌人。似せ絵の名手として知られた藤原隆信の娘。中山忠定の妻。
生涯
[編集]順徳天皇に出仕し、その内裏歌壇で頭角を表した。記録に残る限りでは、建保2年(1214年)の『月卿雲客妬歌合』が初見となっている。その後の数年間に集中的な活躍を見せるが、承久の乱による歌壇の崩壊と共に文献上からその姿を消した。
逸話
[編集]五十六番 左 勝 兵衛内侍
— 『冬題歌合』 建保五年
なみだ河袖ゆく水のこほるより うきねのとこの夢はむすばず
右 左衛門督忠信卿
たえぬべきみちだにつらき山どりの 尾上の霜にふしやわぶらん
右歌もことなる難侍らねど 左のことばすがた
ありがたくえおかしくみえ侍ければ 満座申可為勝之由
- 相手にも難点はないが、全会一致で勝ちに決まったほど、絶賛されたことを伝えている。
- 活動期間が比較的短く、場も限られていたため、残された作品は多くないが、『続歌仙落書』[2]に4首採られて、その魅力的な歌風を賞賛されている。
風體うつくしきさまにて見どころ侍り
— 『続歌仙落書』
霜枯の蘆まに鴨のむら鳥の遊ぶをなむみる心地する
建保四年閏六月日内裏百番歌合に 春を
花の色は盡きじと思ふもゝ敷や おほ宮人の千世のかざしに
同歌合に
夕暮はなにはのあしびたきそめて こやもあらはに立つ煙かな
承久元年七月内裏百番歌合に 冬夜月を
貴船川ゆくせの月の氷るよに うへこす玉はあられなりけり
内裏撰歌合に
忘らるゝ身はうき物と世の中に 思ひすてゝも行くかたぞなき
かものゐる入江のあしは霜がれて おのれのみこそあをばなりけれ
作品
[編集]歌集 | 作者名 | 歌数 | 歌集 | 作者名 | 歌数 | 歌集 | 作者名 | 歌数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
新拾遺和歌集 | 兵衛内侍 | 1 | 新後拾遺和歌集 | 順徳院兵衛内侍 | 1 | 新続古今和歌集 | 兵衛内侍 | 1[* 1] |
催事 | 時期 | 作者名 | 備考 |
---|---|---|---|
月卿雲客妬歌合 | 建保2年(1214年)9月30日 | 兵衛内侍 | 菅原淳頼と番い勝2負1[* 3] |
建保名所百首 | 建保3年(1215年)10月24日 | 兵衛内侍 | |
内裏百番歌合 | 建保4年(1216年)閏6月9日 | 兵衛内侍 | 飛鳥井雅経と番い勝1負4持5 |
歌合 | 建保4年(1216年)8月22日 | 兵衛内侍 | 勝1負1持3 |
歌合 | 建保4年(1216年)8月24日 | 兵衛内侍 | 勝1負3持2 |
右大臣家歌合 | 建保5年(1217年)9月 | 兵衛内侍 | 勝1負2持3 |
四十番歌合 | 建保5年(1217年)10月19日 | 兵衛内侍 | 順徳天皇と番い勝4持1 |
冬題歌合 | 建保5年(1217年)11月4日 | 兵衛内侍 | 坊門忠信と番い勝4負1持2 |
歌合 | 建保7年(1219年)2月12日 | 兵衛内侍 | 藤原光経と番い負4持2 |
内裏百番歌合 | 承久元年(1219年)7月27日 | 兵衛内侍 | 久我通光と番い勝3負3持4 |
- 家集は伝存しない。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 松井律子 「『月卿雲客妬歌合』攷」 『就実語文』 (20),37-68 1999年12月 就実女子大学日本文学会
- 岩崎禮太郎 「内裏名所百首における「末の松山」の歌をめぐって」 『日本文学研究』 21,85-95 1985年11月1日 梅光学院大学