韓滌魯
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韓 滌魯(かん てきろ、999年 - 1071年)は、遼(契丹)の政治家。名は宗福。字は遵寧。契丹名は滌魯。韓徳威の子の韓雱金(耶律遂正、字は韓隠)の子にあたる。
経歴
[編集]幼いころ宮中で養育され、小将軍の位を受けた。重熙初年、北院宣徽使・右林牙・副点検を歴任した。惕隠の位を受け、西北路招討使となり、漆水郡王に封じられた。軍籍にある者3280人を削減するよう請願した。後に回鶻の使者から獺の毛裘を、阻卜から貢物を横領し、事が発覚して杖罰を受け、官爵を剥奪された。まもなく北院宣徽使として再起した。重熙19年(1050年)、烏古敵烈部都詳穏となった。まもなく東北路詳穏となり、混同郡王に封じられた。
清寧初年、鄧王に徙封され、南府宰相に抜擢された。老年のため隠退を願い出て、さらに韓王に改封された。咸雍7年(1071年)に死去した。享年は73。
妻子
[編集]妻
[編集]- 阿睦葛別胥
男子
[編集]- 耶律承訓(字は乙辛隠、契丹名は燕五)
- 耶律承規(字は孔寧、契丹名は敵烈)
- 耶律承道(字は魯不菫、契丹名は孔古里)
女子
[編集]- 耶律当哥(蕭胡睹古(蕭図玉の子の蕭双古の子)の妻)
伝記資料
[編集]- 『遼史』巻82 列伝第12
- 耶律宗福墓誌銘
- 孔寧敵烈太保墓誌