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露月院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ろげついん

露月院
秀次長女像(京都瑞泉寺所蔵)
生誕 天正15年(1587年
死没 文禄4年8月2日1595年9月5日
別名 槿姫
父:豊臣秀次
母:於亀の前/中納言局(摂津国小浜の僧毫摂寺善助の娘、持明院基孝の養女)
親戚 弟:仙千代丸百丸十丸土丸
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露月院(ろげついん)は、安土桃山時代の女性。豊臣秀次の処刑された娘。

略歴

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聚楽物語』によると、生母は中納言局・御亀御前(於亀の前)と呼ばれた女性[1]で、摂津国小浜毫摂寺)の僧・毫摂寺善助[2]の娘である。彼女は正二位権中納言・持明院基孝の養女とされていたことから「中納言」と称されていた。

文禄2年(1593年)、淀殿が第二子・拾(秀頼)を出産すると、『駒井日記』によれば、豊臣秀吉はこの我が子と、秀次の1歳になったばかりの娘とを婚約させる意向を表明したという[3]。この女児は、露月院とは寺伝による享年と歳が合わないが、彼女のことであるとする説と、瑞龍寺の過去帳にある「妙亀童女」(八百姫[4])という法名の夭折した秀次の別の娘であるとする説がある。

文禄4年(1595年)、秀次の自害後、秀吉の命令でその一族が処刑された際、露月院は、秀次の妻妾に先だって三条河原で処刑された5名の公達・姫君の1人であった。

大かうさまくんきのうち』では、母親たちにすがりついていたが、姫君は処刑人(河原の者)が「逃れられないもの」と言うやいなや引きはがされ、二刀のもとに殺され、心臓を突かれて絶命したとし、その様子は鬼神よりも恐ろしい所業であったと、生々しく描写されている[5]

浄土宗慈舟山瑞泉寺にある秀次公一族の法名を記した名簿によると、享年9で、戒名は露月院殿誓槿大童女[6]。ただし日蓮宗本圀寺末寺である)瑞龍寺の過去帳に彼女についての記載はない[7]

脚注

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  1. ^ 出身地により「小浜の局」ともいう。
  2. ^ 『大かうさまくんきのうち』では「小浜殿」とされる人物。
  3. ^ 渡辺世祐国立国会図書館デジタルコレクション 豊太閤と其家族』日本学術普及会、1919年、95-96頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953289/60 国立国会図書館デジタルコレクション 
  4. ^ 『兼見卿記』による。この人物は文禄元年に生まれて、文禄3年か翌年の7月13日に亡くなっている。
  5. ^ 他方で『聚楽物語』では仙千代丸の哀れな様の描写があるだけで、姫君の最後については特段記述がない。
  6. ^ 『系図纂要』では感月院誓槿とする。「一に妙泉」とも書いているが、”秀次御息”の法名であり、娘である彼女の法名ではなく、仙千代丸のもので、土丸の法名をなしとするのは不自然であろう。
  7. ^ 黒川道祐 著、上村觀光 編『黒川道祐近畿游覧誌稿』淳風房、1910年、98-99頁。 

参考文献

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  • 小林千草『太閤秀吉と秀次謀反』筑摩書房、1996年。ISBN 4480082999 
  • 国民文庫刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 聚楽物語」『雑史集』国民文庫刊行会、1912年、47頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666/35 国立国会図書館デジタルコレクション