電 (雷型駆逐艦)
電 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | ヤーロー社[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
水雷艇駆逐艇[3] → 駆逐艦[4] |
母港 | 最終時:横須賀[5](大湊[6]) |
艦歴 | |
計画 | 第一期拡張計画[7](明治29年度[8]) |
発注 | 1897年1月16日製造契約[9] |
起工 | 1897年11月[8] |
進水 | 1899年1月28日[8][10] |
竣工 | 1899年4月25日[8][11] |
最期 | 1909年12月16日沈没[8] |
除籍 | 1910年9月15日[8] |
その後 | 売却[8][12] |
要目 | |
排水量 |
341英トン[4] 公試時:311英トン[13] |
長さ | 220 ft 8 in (67.259 m)[2][14] |
幅 | 20 ft 6+11⁄16 in (6.266 m)[14] |
深さ | 13 ft 08 in (4.166 m)[14] |
吃水 | 計画:5 ft 2+3⁄8 in (1.584 m)[2][14] |
ボイラー | ヤーロー式缶 4基[15] |
主機 | 直立3段4筒レシプロ 2基[16] |
推進 | 2軸[16] |
出力 | 計画:6,000馬力[2][15] |
速力 |
計画:31ノット[2][15] 公試成績:28.0ノット[13] |
燃料 |
計画:石炭100英トン(全量)[17] 1904年:石炭90英トン[13] |
乗員 |
1898年6月定員:52名[18] 最終時総員:62名[19] |
兵装 |
竣工時[15] 12ポンド砲 1門 5.7cm砲 5門 朱式[16]18インチ(45.7cm)発射管 2門 |
電(いなづま)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[4] 雷型駆逐艦の2番艦である。 艦名は「イナビカリ」のこと[4]。 同名艦に吹雪型駆逐艦(「特III型、暁型」)の「電」がある為、こちらは「電 (初代)」や「電I」などと表記される。
艦歴
[編集]建造
[編集]1897年(明治30年)1月16日にイギリスのヤーロー社と第1回目の駆逐艦建造契約を締結、「電」はそのうちの1隻になる[2][9]。 同年11月に起工[8]、 1898年(明治31年)3月16日建造中の「第二號水雷艇驅逐艇」を「電(イナヅマ)」と命名[20]、 3月21日に軍艦及水雷艇類別等級が定められ、「電」は水雷艇駆逐艇に定められた[3]。 1899年(明治32年)1月28日進水[10]、 4月25日竣工した[8][11]。
回航
[編集]日本への回航はヤーロー社が請け負い[21]、 艦長ジャクソンなど外国人乗員で[22] 竣工翌日の26日、日本へ向けて出港し[11][23]、 6月27日横須賀着[24]、 7月3日受領した[25]。
日露戦争
[編集]1904年(明治37年)に日露戦争が勃発した際には第1艦隊第2駆逐隊に所属していた。同年2月8日の旅順港奇襲攻撃にも参加している。同作戦中、第2駆逐隊からはぐれてしまい、後続の第3駆逐隊(薄雲Ⅰ、漣Ⅰ、東雲Ⅰ)と共に攻撃を行った[26]。
日露戦争後
[編集]1905年(明治38年)12月12日、内令第751号で駆逐隊編制が定められ(これ以前は各鎮守府が駆逐隊を定めていた[27])、 「雷」「電」「曙」「朧」の4隻で「第四駆逐隊」(大湊要港部所属)を編制した[28]。 以降「電」は除籍まで「第四駆逐隊」所属だった[29]。
喪失
[編集]1909年(明治42年)12月16日午後5時30分、高速試験終了後に函館を目指していた電は函館南方の葛登支岬北西約2マイル (3.2 km)の海上で千島汽船の商船錦龍丸(660t)の前方を横切ろうとし、右舷後部が錦龍丸の船首と衝突。その後錦龍丸に曳航を頼み函館へと向かおうとするも浸水が止まらず、午後8時に函館港より4マイル (6.4 km)の地点で沈没した[19]。 総員62名中60名は救助され、2名が行方不明となった[19]。 偶然にも衝突事故は二代目電、三代目いなづま、四代目いなづまでも発生した。
12月19日に潜水調査で艦の前半部を発見、船体は後部缶室と機械室の間で切断されていて[30]、 後半部は12月27日に見つかった[31]、 艦の引き揚げは函館海事工業(松田助八)が請け負い[32]、 1910年(明治43年)4月上旬から引き揚げ準備に着手、4月28日から現場作業を開始したが天候不良が多く[33]、 また潜水士1名、小蒸気船の艇長1名が死亡するなど、作業は難航した[34]。 艦の後半部は8月1日に船渠会社の前、水深5尋(約9メートル)の位置まで移動し[35]、 8月7日にスリップに引き揚げを予定した[36]。 艦の前半部は9月14日にスリップへ引き揚げることが出来た[37]。 なお魚雷2本は7月2日に発見済み[38]、 魚雷発射管2門は収容済み、探照灯は紛失、後部3インチ砲は存在、4番6ポンド砲は紛失するなど[39]、 艦砲は計2門が行方不明になった[37]。
9月15日除籍[5]、 艦艇類別等級表から削除[40]、 「第四駆逐隊」からも除かれた[41]。 翌16日訓令が出され、電線を除く兵器類は日本海軍が収容し、残りの機関、船体などは現状のまま売却とされた[12]。
艦長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 艦長
- 吉島重太郎 少佐:1900年6月22日 - 1903年4月12日
- 篠原利七 少佐:1903年4月12日 -
- 駆逐艦長
- 和田博愛 大尉:1905年12月12日 - 1906年1月25日
- 富永寅次郎 大尉:1906年1月25日 - 1907年11月22日
- 山根米吉 少佐:1907年11月22日 - 1908年7月11日
- 鎌倉義喜 大尉:1908年7月11日 - 12月10日
- 堀田文雄 大尉:1908年11月20日 - 1910年1月15日
脚注
[編集]- ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.505, 写真No.1255の解説
- ^ a b c d e f #日本近世造船史明治(1973)p.466
- ^ a b #海軍制度沿革8(1971)pp.60-61、明治31年3月21日附達第35号。
- ^ a b c d 日本海軍艦船名考 1928, p. 93「102 電 いなづま Inaduma.」
- ^ a b #M43達/9月画像20『達第百二十三號 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 電 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル 明治四十三年九月十五日 海軍大臣 男爵斎藤實』
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.68、明治43年2月25日内令第36号。
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9
- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、284頁。
- ^ a b #公文備考別輯雷電他/水雷艇駆逐艇製造(1)画像26、明治30年2月14日ロンドン発電報「ソーニクロフト一月十四日ヤッロー一月十六日條約調印済(水雷艇駆逐艇四隻ノ條約ナリ)」
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 1/水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件画像6『電報 三十二年二月二日 軍務局長宛 倫敦 杉永 電一月二十八日進水滞ナク済ム 東雲回航費五千磅ノ誤訂正アリタシ』
- ^ a b c #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 1/水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件画像9『電報 三十二年四月廿六日 軍務局長 倫敦 杉永 電昨日受取四月廿六日ダートマウス向ケ出発セリ』
- ^ a b #M43公文備考28/売却処分(3)画像48-49、官房第3080号の2「驅逐艦電賣却處分ノ件 函館港ニ於テ沈没シタル驅逐艦電引揚ノ上ハ兵器並其附属物ヲ官ニ於テ収容シ船體及機関ハ現状ノ侭賣却スヘシ 但電線ハ収容スルニ及ハス 右訓令ス」
- ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻p.284、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ a b c d #日本近世造船史明治(1973)p.319、英国製造駆逐艦設計要領表
- ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)別冊、表12
- ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻p.114-115(第三巻 九四~九五頁)
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.142(第三巻 一二二頁)
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.3-3、明治31年6月29日(内令49)
- ^ a b c 『駆逐艦電沈没一件(1)』アジア歴史資料センター Ref.C06092324100
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.369、明治31年3月16日附達第27号、水雷艇驅逐艇雷電東雲叢雲曙漣夕霧不知火命名ノ件。#明治31年達/3月(1)画像6、明治31年3月16日達第27号
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 1/水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件画像2『電信案 電回航ハ東雲同様ノ條件ニテヤルロー社ニ請負ハセ契約締結スヘシ曙外五艘ニハ回航員ヲ送ル 三十二年一月二十六日 軍務局長 松永??長』
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 1/水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件画像26、官房第3114号、水雷艇電回航員、慰労金贈典の件
- ^ 『官報』第4744号、明治32年4月28日。
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 1/水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件画像22-23
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 1/水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件画像29、横鎮第2279号の9、水雷艇電受領済?義報告
- ^ 『物語日本史』第10巻、学習研究社、47-48頁。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.64
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.64-65、明治38年12月12日内令第751号。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.64-69
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像1、明治42年12月24日大要機密第167号「驅逐艦電状態ノ件」
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像6、明治43年1月2日大要機密第167号の2「驅逐艦電沈没状態ニ関スル件」
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像36
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像31、明治43年7月29日大要機密第100号「電引揚作業延期ニ関スル件」
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像32
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像50、8月1日電報「電後半部船渠会社前五尋ノ処迄持チ来リ今(スリップ)ニ引揚準備中延期願至急御詮議相成リタシ」
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像51、8月7日電報「天候不良(スリップ)準備出来ズ電引揚ハ八日ニ順延ス」
- ^ a b #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像67-69、9月14日電報「本日電前半部(スリップ)ニ引揚ゲ終リ検査ノ上領収セリ、船体上甲板以上ノ(ストラクチュアー)ハ大半破損上甲板ハ(マスト)ノ附近陥落其ノ他舷側処々凹ミアリ兵器ハ前半部後半部ヲ合セ大砲二門亡失罐ハ異常ナキモノノ如シ」
- ^ #M43公文備考24/駆逐艦電沈没一件(2)画像43、7月2日「現場潜水ノ上魚雷水雷弐個発見海岸浅所ニ沈置ス」
- ^ #M43公文備考28/売却処分(3)画像53、「兵器ハ後部三吋砲存在シ四番六听砲探照燈及発射管二門脱落シテ存在セズ 但発射管二門及之ニ装填セル水雷二個ハ沈没位置ヲ距ル約六十間ノ所ニテ別ニ拾ヒ取レリ」
- ^ #M43達/9月画像20『達第百二十四號 艦艇類別等級別表中「電」ヲ削ル 明治四十三年九月十五日 海軍大臣 男爵斎藤實』
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.68、明治43年9月15日内令第122号。
参考文献
[編集]- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 「水雷艇駆逐艇雷、電、東雲、叢雲、曙、漣、夕霧、不知火、陽炎、薄雲、朧、霓製造に関する件(1)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 1 明治29~32』、JACAR:C11081491600。
- 「水雷艇駆逐艇電本邦へ回航に関する件」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 1 明治29~32』、JACAR:C11081492500。
- 「駆逐艦電沈没一件(1)」『明治43年 公文備考 艦船7 巻24』、JACAR:C06092324100。
- 「駆逐艦電沈没一件(2)」『明治43年 公文備考 艦船7 巻24』、JACAR:C06092324200。
- 「売却処分(3)」『明治43年 公文備考 艦船11 巻28』、JACAR:C06092331200。
- 「3月(1)」『明治31年 達 完』、JACAR:C12070040500。
- 「9月」『明治43年 達 完』、JACAR:C12070061000。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 高村暢児『物語日本史』第10巻「日清日露戦争・太平洋戦争」、学習研究社 、1967年。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。