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難波田憲次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

難波田 憲次(なんばた のりつぐ、生没年不詳)は戦国時代から安土桃山時代武蔵国武将大森式部大輔明昇の子。因幡守。子に難波田憲利

母は難波田憲重の娘で、母方の難波田家を相続した。

上田朝直に仕えていたが、天正18年(1590年)の前田利家上杉景勝松山城攻めの時に城代の山田直安以下金子家基・若林氏らと降伏。 三千余騎で利家の先手に加わり八王子城を攻める。その後山城国嵯峨に隠棲、同地で死去。法名遊心。妻は三条右大臣某(三条実綱か)の娘。

嫡男憲利は文禄元年(1592年)から徳川家康秀忠に仕えて寛永12年(1635年)に62歳で死去。子孫は代々幕臣となっている。

参考文献

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関連項目

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