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阿部みどり女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

阿部 みどり女(あべ みどりじょ、1886年10月26日[1] - 1980年9月10日[1])は、日本俳人。本名はミツ。北海道札幌区(現・札幌市)生まれ[1]。父は第2代北海道庁長官永山武四郎[1]

来歴

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北星女学校(現北星学園女子中学高等学校)修了[1]

1910年阿部卓爾と結婚して東京に住むが、結核のため鎌倉で療養[1]。この頃から俳句を始める[1]1915年高浜虚子に師事、以後「ホトトギス」を中心に作品を発表[1]。始めは主情的な俳風だったが、後に虚子が客観写生を説くと彼女もそれに従い、更に写生を極めるために洋画家森田恒友素描を学んだ[1]長谷川かな女杉田久女とともに、女流俳句草創期を代表する一人。金子兜太はかな女・久女を感情型、みどり女を想念型と指摘している[1]

1931年河北新報」の俳壇の選者となる[1]1932年、東京杉並で俳誌「駒草」を創刊・主宰する[1]1940年、長男と夫を相次いで失う[1]1944年太平洋戦争の激化に伴い「駒草」を休刊、娘婿で「河北新報」の重役でもあった一力五郎(一力健治郎の子)の勧めで仙台に移転[1]1945年「駒草」を復刊、以後三十余年に渡って同地の俳句界で活躍する[1]

1956年、河北文化賞を受賞。写生に徹しながらも、人生や生命の機微を瑞々しく詠い上げた俳風は、歳を重ねるに連れて深みを増す[1]1978年、句集『月下美人』等の業績で第12回蛇笏賞を受賞[1]。その後、東京に転居[1]1980年9月10日死去。

仙台市太白区茂ケ崎に句碑がある[1]。また、1999年に弟子で現在「駒草」主宰をつとめる蓬田紀枝子による評伝『俳人阿部みどり女ノート 葉柳に…』が刊行され[2]、同年度の俳人協会評論賞を受賞している[3]

著作

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句集
  • 笹鶴(1947年)
  • 微風(1955年)
  • 光陰(1959年)
  • 定本阿部みどり女句集(1966年)
  • 雪嶺(1971年)
  • 陽炎(1975年)
  • 月下美人(1977年)
  • 石蕗(1982年)
随筆集
  • 冬蟲夏草(1963年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『現代俳句大辞典』、当該人物の項目より
  2. ^ 「『俳人阿部みどり女ノート 葉柳に…』/克明に半生をたどる 俳壇史の資料的価値も/仙台・「駒草」主宰の蓬田紀枝子さんが出版」 河北新報、1999年10月18日付
  3. ^ 俳人協会ホームページ・俳人協会各賞受賞者一覧”. 2013年2月5日閲覧。

参考文献

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  • 『現代俳句大辞典』 三省堂、2008年

外部リンク

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