門田朴斎
門田 朴斎(門田 樸斎[1]、もんでん ぼくさい[1]、寛政9年2月18日(1797年3月16日)[1] - 明治6年(1873年)1月11日[1])は、幕末の儒学者、漢詩人[1]。名は重隣[1]。字は尭佐[1]。通称は小三郎、正三郎[1]。朴斎(樸斎)は号[1]。
略伝
[編集]備後国安那郡百谷村(現広島県福山市加茂町百谷)で山手八右衛門重武の第3子として生まれる[1][2][3]。のち父を亡くしたため、母方の実家である安那郡法成寺村(現駅家町法成寺)の庄屋・門田儀右衛門政周の養子となり門田姓を称した[1][2][3]。
文化5年(1808年)菅茶山の廉塾に入門する[1][2][3]。 ここで茶山や都講の頼山陽や北条霞亭に学ぶ[3]。幼いながら才知聡明であった[4]。茶山は後継者として霞亭を迎えていたが備後福山藩儒官(藩儒)として登用されたため、その代わりの後継者として文政3年(1820年)朴斎が茶山の養子となり廉塾の都講を務めた[1][2][4]。文政10年(1827年)朴斎と茶山は感情の行き違いから、朴斎は離縁され門田に復した[4][3](門田政周が死去したため、家を継ぐため門田に復したとも[2])。同年茶山死去、翌文政11年(1828年)東作と名乗り上京、山陽の家塾に入門する[1][2]。
文政12年(1829年)福山藩6代藩主・阿部正寧に儒官として採用される[1][2][3]。同年江戸に出て福山藩阿部家丸山屋敷で侍講を務め、正寧・正弘・正教・正方・正桓と5代の藩主に学を講じた[2]。黒船来航に対し攘夷論を説いたため、藤田東湖や梁川星巌などさまざまな尊王攘夷派が来訪したという[2]。攘夷論に基づく時務策を建白するも、福山藩7代藩主であり老中首座の阿部正弘に嘉永6年(1853年)罷免され嘉永7年(1854年)帰郷の命を受ける[1][2][3]。
帰郷した福山では蟄居していたが、月性や久坂玄瑞などさまざまな尊王攘夷派が来訪していたという[2]。文久元年(1861年)[3](あるいは文久3年(1863年)[2])、福山藩9代藩主・阿部正方に再び登用され、侍講として正方の補佐を務めた[1][2]。また文久3年(1863年)福山藩校・誠之館の教授を務めた[3]
明治元年(1868年)致仕(辞職)し、隠居した[2]。明治6年(1873年)死去[2]。享年77[2]。墓は駅家町西法成寺にあり墓誌は小野湖山による[2]。著書に『朴斎詩鈔』、『葦北詩鈔』など。
親族
[編集]朴斎には6人息子がいた。
- 長男 : 直太郎 - 夭死[2]
- 次男 : 重長 - 福山藩儒、藩校誠之館教授、誠之館中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)教諭。[2]
- 三男 : 久質 - 福山藩士・手嶋七兵衛の養子となる(手嶋久質)。誠之館教授、能書家。[2]
- 四男 : 重棟 - 分家独立。福山藩士。[2]
- 五男 : 晋賢 - 菅惟縄の養子となる(菅晋賢)。廉塾塾主。[2]
- 六男 : 新六 - 分家独立。私立門田高等女学校(現福山市立福山中・高等学校)創設者。[2]