長谷川忠崇
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長谷川忠崇像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄7年(1694年) |
死没 | 安永6年5月20日(1777年6月25日) |
別名 | 通称:政右衛門、庄五郎 |
幕府 | 江戸幕府旗本、飛騨代官 |
主君 | 家宣→家継→吉宗→家重→家治 |
氏族 | 長谷川氏 |
父母 | 父:長谷川忠国、母:小沢正珍(津藩藤堂氏家臣)娘 |
妻 | 矢部重信娘 |
長谷川 忠崇(はせがわ ただたか)は、江戸時代中期の武士。江戸幕府旗本、飛騨代官。家禄は400俵。[1]
生涯
[編集]元禄7年(1694年)、江戸幕府旗本・長谷川忠国の子として誕生。
享保13年(1728年)、家督を継ぎ、父に代わって飛騨代官となる。享保14年(1729年)に美濃国上川辺にあった出張陣屋を同国下川辺[2]に移転した(下川辺出張陣屋)。また、これまでの飛騨代官は主に江戸から行政を行っていたが、元文3年(1738年)から高山在住に改めた。享保14年(1732年)の頃には、飛騨国・美濃国内で5万4500石を支配した。
元文4年(1739年)、家に伝わる古文書329通を幕府に献じて時服・黄金を賜う。在任中は飛騨地域の歴史書『飛州志』の編纂や史跡・橋梁などへの石碑の建立などを実施。飛騨国内の史跡の維持や啓発活動に力を注ぎ、同地の歴史を今日に伝える現存する資料を残した。そのほか、年貢の増免と百姓の江戸出訴への対応、年貢の金納化のための石代五カ所聞合法の採用、高山の人別米制度の実施を行なった。
延享2年(1745年)、病により職を免じられたが、宝暦2年(1752年)には細工頭へ再出仕。宝暦7年(1757年)に鉄砲箪笥奉行へ転任となる。
しかし、安永6年(1777年)には老齢により職を免じ黄金を賜うが、同年には病死した。享年84。[1] なお、忠崇のように父から子へと飛騨代官の職を継承している例は、この後に大原騒動でも知られる大原紹正、大原正純の例がある。
経歴
[編集]- 享保13年(1728年)家督を継ぎ、飛騨代官となる。
- 延享2年(1745年) 病免。
- 宝暦2年(1745年) 細工頭へ再出仕。
- 宝暦7年(1757年) 鉄砲箪笥奉行となる。
- 安永6年(1777年) 死去。