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長崎光綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長崎光綱
時代 鎌倉時代
生誕 不明
死没 永仁5年8月6日1297年8月25日
別名 通称:左衛門尉、太郎左衛門
幕府 鎌倉幕府
主君 北条時頼時宗貞時
氏族 長崎氏
円喜高頼
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長崎 光綱(ながさき みつつな)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士北条氏得宗被官である御内人内管領。『太平記』などで知られる長崎円喜の父。

概略

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平禅門の乱で知られる平頼綱の近親者とされるが、系譜については、頼綱の弟(父は平盛綱または平盛時)とする説[1]長崎光盛の子で頼綱の甥[2]または従兄弟[3]とする説とあって確定していない。

吾妻鏡』での初見は弘長元年(1261年4月25日執権北条時頼の命で嫡男の時宗が将軍宗尊親王の御前で流鏑馬を披露した時に馬を用意した記録である。弘長3年11月22日1263年12月24日)、北条時頼の臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の中の一人となっている。

文永10年(1273年)、一族の総領である平頼綱の後任を受けて翌年まで幕府の侍所所司を務める。頼綱が有力御家人安達泰盛を滅ぼした霜月騒動後の正応4年(1291年)、頼綱の子息平宗綱飯沼資宗らと共に五方引付の上位として監督権を与えられ、得宗北条貞時の乳母父・内管領として専権を極める頼綱の代官的存在として活動している。

正応6年(1293年)に平禅門の乱で頼綱が貞時に誅された時は貞時方についたと思われ、頼綱誅殺後は、頼綱に代わって光綱が一門の総領となり、内管領に就任した。しかし、侍所所司は頼綱の長男・宗綱が任じられている。

永仁5年(1297年)8月6日に死去[4]

脚注

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  1. ^ 保暦間記』では長崎円喜について、「正応ニ打タレシ平左衛門入道カ甥光綱子」(正応6年(1293年)の平禅門の乱で討たれた平左衛門入道杲円(頼綱)の甥で光綱の子)としている。
  2. ^ 系図纂要』の長崎系図に掲載がある。但し、当時の史料で長崎光盛の名を確認することはできない(森幸夫 「平・長崎氏の系譜」(所収:安田元久編『吾妻鏡人名総覧』、吉川弘文館、1998年))。
  3. ^ 『系図纂要』の長崎系図の盛綱と頼綱の間に盛時を入れて光盛をその弟とし、盛時の子・頼綱と光盛の子・光綱を従兄弟とする細川重男の説(著書『鎌倉政権得宗専制論』に掲載)。
  4. ^ 「鶴岡社務記録」永仁五年八月六日条。細川重男は著書『鎌倉政権得宗専制論』P.183において、これを採用した上で八月五日没としているが、前述史料では「八月六日太守女子誕生他界同日長崎金吾光綱他界依觸穢式日延引」と書かれているので恐らく誤りとみられる。

参考文献

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  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)