長山直利
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 承応3年(1654年) |
死没 | 正徳4年(1714年)9月10日 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 長山氏 |
父母 | 父:長山直政 |
兄弟 | 直利、直仍、直次、女子(小普請組酒井能登守組之内・白井源之丞の妻)、女子(御勘定・岩出与左衛門の妻) |
妻 | 永井佐治兵衛の娘 |
子 | 直恒、直張、直興、女子(森源六郎長囿の妻)、女子 |
長山 直利(ながやま なおとし)は、江戸時代前期から中期の日本の武士、旗本。通称は弥三郎。
略歴
[編集]承応3年(1654年)、江戸に生まれる。父は旗本・長山直政[1]。
寛文3年(1663年)、神田御殿に召し出され、御小姓組の中根吉兵衛組へ御番入りを命じられ、2百俵を拝領し勤める。寛文12年(1672年)1月、御小納戸を命じられ、50俵を加増された[1]。
延宝4年(1676年)、直政の跡目を相続し、同8年(1680年)年5月に徳川綱吉が二御丸へ入った時に二御丸で御小納戸を命じられ、地方知行となり、合計550石を武蔵国幡羅郡のうちに下された[1]。
天和2年(1682年)12月18日に浄徳公(綱吉の長男)に付けられ、舘林御先手を命じられ、翌年閏5月21日に当地に呼ばれた[1]。
貞享2年(1685年)2月4日、小普請に入り彦坂壱岐守支配となり、同3年(1686年)11月8日、大御番北条伊勢守組に御番入りを命じられた[1]。
元禄4年(1691年)12月2日、小川町に925坪の屋敷を拝領した[1]。同11年(1698年)、600俵が地方知行となり、相模国鎌倉郡のうち(現在の鎌倉市関谷)に600石を下された[1][2]。同13年(1700年)1月12日、武蔵国埼玉郡のうちに200石を加増され、合計1350石となった[1]。
宝永6年(1709年)10月12日、松前伊豆守支配となった[1]。
正徳4年(1714年)年9月10日に病死した。法名は覚性院浄宜堅亮[1]。