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銭永銘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
銭 永銘
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1885年光緒11年)
死去: 1958年民国47年)6月19日
中華民国の旗 中華民国 台湾省台北市
出身地: 清の旗 江蘇省松江府上海県
(現:上海市
職業: 実業家・銀行家・政治家
各種表記
繁体字 錢 永銘
簡体字 钱 永铭
拼音 Qián Yŏngmíng
ラテン字 Ch'ien Yung-ming
和名表記: せん えいめい
発音転記: チエン ヨンミン
英語名 Y. M. Ch'ien
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銭 永銘(せん えいめい)は中華民国の実業家・銀行家・政治家。浙江財閥とのコネクションを有する銀行家として知られ、銀行・実業界で活動して国民政府を支えた。新之。晩号は北監老人。祖籍は浙江省湖州府呉興県(現:湖州市呉興区)。

事績

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北京銀行界での活動

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1897年光緒23年)、上海育才学堂に入学し、1902年(光緒28年)、省立天津北洋大学で財政経済学を学んだ。翌年、日本に留学し、神戸高等商業学校で学んでいる。1909年宣統元年)に帰国し、その翌年に公立南京高等商業学校で教鞭をとった。

中華民国が成立すると、銭永銘は陳其美の推薦もあって、北京政府の旧農工商部接収事務に携わった。1913年民国2年)に第二革命(二次革命)が起きると、銭は北京政府を離れ、実業家として活動する。1917年(民国6年)、黄炎培らと共に中華職業教育社の設立に参加した。同年、張謇の紹介により、交通銀行上海分行副経理に就任する。翌年、上海銀行公会会長に就任し、1922年(民国11年)、張が交通銀行上海分行総理となると、銭は協理としてこれを支えた。1925年(民国14年)5月、張、銭ともに職を辞する。銭は翌1926年(民国15年)に四行聯合儲蓄会副主任兼四行聯合準備庫主任に任ぜられた(四行とは華北の塩業・金城・中南・大陸の4銀行をいう)。

国民政府での活動

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銭永銘別影(『最新支那要人伝』1941年)

その後、銭永銘は国民政府に転じ、1927年(民国16年)2月、浙江省財務委員会委員に任ぜられる。3月、上海商業聯合会常務委員、上海財政委員会委員に任ぜられた。5月、中央銀行副行長に起用され、更に国民政府財政部次長、中央財政委員会委員を兼任している。銭は浙江財閥とのコネクションを生かして、軍事費等の捻出に苦しむ蔣介石らのために公債・国庫券発行などで協力し、また蔣の上海クーデター(四・一二事変)も支持した。

8月、銭永銘は関税委員会委員となり、さらに財政部部長を代理した。以後、国民政府建設委員会委員、中央銀行理事会理事、浙江省政府財政庁庁長、交通銀行常務董事などを歴任した。1929年(民国18年)にいったん実業界に転じ、中興煤礦公司総経理、中興輪船公司董事長、中華職業教育社董事会主席などを務めた。なお1931年(民国20年)1月に、駐フランス公使に任ぜられたが、実際には赴任していない。

第一次上海事変勃発後、銭永銘は上海地方維持会(後に上海地方協会と改称)理事となり、1934年(民国23年)には同会副会長に任ぜられた。その前の1933年(民国22年)4月には全国航空建設会委員に任ぜられ、同年には杭州電力公司を設立している。1935年(民国24年)、中国銀行・交通銀行が改組されると、銭が両行の常務董事となった。

日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、銭永銘は杜月笙らと協力して、上海各界抗敵後援会を組織した。上海陥落後の1937年(民国26年)11月、銭と杜は香港に移り、中国紅十字会総弁事処と賑済委員会第9区事務所を設立している。1938年(民国27年)6月、銭は第1期国民参政会参政員に選出され(以後、第4期まで同様に選出)、8月には交通銀行董事長に任ぜられた。翌年9月、中央・中国・交通・中国農民が四行聯合弁事処を設立すると、銭が常務理事となっている。1941年(民国30年)8月、重慶に移り、杜と協力して中華実業信託公司を創設、銭は常務董事となった。1943年(民国32年)に杜が通済公司を設立すると、銭も交通銀行を通して投資し、その常務董事となっている。

晩年

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戦後の1946年(民国35年)1月、銭永銘は重慶で開催された中国政治協商会議(旧政協)に出席した。その後、上海に戻り、閘北水電公司、中国塩業公司、上海『新聞報』など複数の企業で董事長などを務めた。10月、制憲国民大会代表に選出される。翌年4月、美金公債勧募委員会主任委員となり、1948年(民国37年)には行憲国民大会代表に当選した。同年、杜月笙と復興航業公司の設立準備を進めている。

1949年(民国38年)、銭永銘は香港に移る。その翌年3月に、銭は復興航業公司を台湾へ移転させたが、まもなく病気により退職した。

1958年(民国47年)6月19日、台北市にて病没。享年74。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
中華民国の旗 中華民国
先代
古応芬
財政部長(代理)
1927年8月 - 10月
次代
孫科