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釜山軌道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

釜山軌道(ぷさんきどう)は、日本統治時代朝鮮半島に存在した鉄道会社である。朝鮮の私設鉄道の嚆矢とされる。

概要

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釜山電燈(明治34年設立)[1]を経営していた大池忠助[2][3]東萊温泉への湯治客の輸送を目的として、釜山鎮から東莱温泉までの鉄道敷設を計画した。1909年(明治42年)6月20日に出願したところ6月29日に特許となった。8月15日創立総会を開き大池忠助社長他役員を選任し29日釜山軌道株式会社(資本金5万円)[1]を設立登記した。工事は順調に進み12月2日に釜山鎮-東莱南門間(4哩19鎖)が開通。12月19日に東莱南門-温泉場間(1哩76鎖)が開通した。軌間は2フィート、小型の蒸気機関車が客車を牽引した。 ところが釜山における電車、ガス、電燈事業を目的とした韓国瓦斯電気株式会社が計画され、発起人には男爵松平正直東京馬車鉄道社長だった牟田口元学がおり、1910年(明治43年)5月18日に設立許可を得ると先行企業である釜山電燈、釜山軌道の買収をはかり、大池より承諾をとると10月18日に会社を設立(10月26日登記、本社東京 社長牟田口元学、取締役大池忠助)[4]し、11月22日より軌道事業を継承した。ところが1911年(明治44年)4月25日に釜山鎮倉庫火災のため車両が被災してしまい機関車を修復し客車を新造するまでの間トロリーで旅客を輸送するアクシデントがあった。また買収許可の条件として2フィート6インチに改軌することがあり1912年(明治45年)3月20日から工事に着手し4月20日釜山鎮-東莱南門間開通。7月11日に東莱南門-温泉場間(総延長5哩8分)が開通した。さらに本来の目的である釜山市内および郊外の電車敷設に着手することになり、まず1915年(大正4年)11月1日に釜山鎮-東莱温泉間に電車が走るようになった。なをしばらくは蒸気機関車も併用されていたが市内線が開通し路線も延長されていき、1916年ころ蒸気機関車は廃止となった。(以降複線化や電車の増備が進められるが廃止までの歴史は釜山市電を参照)

なお韓国瓦斯電気は1913年(大正2年)に朝鮮瓦斯電気に社名変更し、1911年(明治44年)7月に東莱-慶洲間、慶州-大邱間ほか合計115哩の鉄道敷設免許を取得したが1914年(大正3年)朝鮮軽便鉄道(朝鮮中央鉄道)に譲渡している。

駅一覧

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釜山鎮 - 西面(せいめん) - 巨堤里 - 東莱- 温泉場

車両

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蒸気機関車は当初2両。改軌後は安奉線で使用された機関車が1両ないし2両。客車は火災前は一等客車2両、二等客車2両、三等客車2両[5]で一部車両はオープンカーであった。

脚注

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  1. ^ a b 『日本全国諸会社役員録. 明治43年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 大地主、貿易商、旅館業、回漕業『在韓成功之九州人』『修養世渡り警句』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 「時事新報社第三回調査全国五十万円以上資産家」『時事新報』1916年4月28日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  4. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治44年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. ^ 「続・安奉軽便鉄道のCタンク機関車」51頁
  6. ^ 『朝鮮鉄道史. 第1巻』写真説明では英国グラスゴーカレドニア鉄工場製となっているが形態から小熊は安奉線の大型と判定した。
  7. ^ 写真『安奉線改築工事記念写真帖』(国立国会図書館デジタルコレクション)

参考文献

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  • 小熊米雄「続・安奉軽便鉄道のCタンク機関車」『鉄道史料』No.12
  • 金田茂裕『バークレイズの機関車』機関車史研究会、1982年、27-30頁
  • 金田茂裕『O&Kの機関車』機関車史研究会、1987年、56頁
  • 『朝鮮鉄道史. 第1巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 『朝鮮鉄道四十年略史』朝鮮総督府鉄道局、1940年
  • 『朝鮮瓦斯電気株式会社発達史』朝鮮瓦斯電気、1938年
  • 『釜山要覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 『日本鉄道旅行地図帳』朝鮮台湾、2009年、16、31頁