金哲 (政治家)
金哲 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김철 |
漢字: | 金哲 |
発音: | キム・チョル |
日本語読み: | きんてつ |
金 哲(キム・チョル、1926年7月1日 - 1994年8月11日[1])は、韓国の政治家、社会主義運動家。開かれたウリ党院内代表や民主党代表、新政治民主連合の共同代表などの要職を歴任した金ハンギルは息子である[2][3]。
歩み
[編集]1949年、日本に渡航し、居留民団に参加したが、1952年に帰国して自由党結成に参加した。しかし、李承晩による族青(民族青年団)系に対する粛清に巻き込まれたため、自由党を脱党して再び日本に渡航した。日本渡航中に、社会主義インターナショナル(SI)が発表した『フランクフルト宣言』[4] を読み共感したことがきっかけで、民主社会主義に目覚めるようになった。
1957年に帰国後、革新政党の創党を試みるが、李承晩政権による反共体制の元で実現できなかった。1960年の4月革命後に結成された韓国社会党に参加、7月の総選挙で革新政党が惨敗後、翌61年に結成された統一社会党(統社党)の結成に主導的な役割を果たし、国際局長に就任した。しかし、同年5月に発生した軍事クーデター後は事実上の亡命状態となり、その間、西欧各地の社会民主主義政党を訪問した。
軍政から民政(第三共和国)移行後、1964年に帰国、翌65年に統社党発起人大会を開催した。統社党は1969年にSIの正会員となった。1970年、統社党の委員長と翌71年大統領選挙の候補者に選出された(後に野党候補一本化を理由に辞退)。大統領選挙後の1971年8月、南北関係改善と平和統一を主張したことを理由に国家保安法及び反共法違反で拘束された。
1972年に維新体制(第四共和国)が樹立されると、1974年11月に発表された「民主回復国民宣言」の署名者の1人[5] となるなど、維新体制に反対する運動に取り組んだ。この間、1975年には緊急措置9号違反で逮捕され、翌1976年の裁判で懲役3年・資格停止2年の宣告を受けた(死去後の2013年9月に行われた再審公判で無罪宣告)[6]。朴正煕が暗殺された翌年の1980年、全斗煥を中心とする新軍部が発足させた国家保衛立法会議の委員に任命[7]、1985年には社会民主党を発足させるなど、民主的社会主義者の立場から政治活動に関わり続けた。
脚注
[編集]- ^ “전사회민주당위원장 김철씨 별세(前社会民主党委員長 金哲氏 別世)”. 東亜日報. (1994年8月12日)。リンク先は韓国言論財団。
- ^ ‘DJ의 리베로’ 김한길 문화관광부 장관 (‘金大中のリベロ’金ハンギル文化観光部長官)-新東亜
- ^ “「민주당 김한길 체제 출범」박정희 vs 김철… 박근혜 vs 김한길(「民主党金ハンギル体制出帆」朴正熙VS金哲・・・朴槿恵VS金ハンギル)” 東亜日報(2013年5月6日)2013年5月25日閲覧
- ^ 1951年7月2日、西ドイツのフランクフルト・アム・マインで採択されたSIの綱領。「民主的社会主義の目的と任務」と題された宣言の中では、ヒットラーとスターリンという全体主義的独裁体制の歴史的経験に基づいた民主的社会主義の進路を明らかにした。経済成長と分配平等化を目指す社会主義的計画の推進、左右両方の独裁体制から人間の尊厳と自由を守るためには政治的民主主義が必要不可欠であることを強く強調した。出所:フランクフルト宣言
- ^ “民主回復 國民宣言 大會 - 各界代表 71명(民主回復国民宣言大会-各界代表71名)”. 東亜日報. (1974年11月27日) 2010年4月4日閲覧。
- ^ “김한길 대표 부친 故 김철 선생, 37년 만에 무죄(金ハンギル代表の父上、故・金哲先生、37年ぶりに無罪)”. 東亜日報(本国版). (2013年9月13日) 2013年9月15日閲覧。
- ^ ““입법의원 81명 임명”(立法委員81名任命)”. 東亜日報. (1980年10月28日) 2010年4月4日閲覧。
出典
[編集]- “'민주적 사회주의' 주창한 김철 살리기(‘民主的社会主義’主張した金哲の助け)”. オーマイニュース. (2001年4月4日) 2011年4月4日閲覧。