野間口兼雄
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所属組織 | 大日本帝国海軍 |
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軍歴 | 1888年 - 1924年 |
最終階級 | 海軍大将 |
野間口 兼雄(のまぐち かねお、慶応2年2月14日(1866年3月30日) - 昭和18年(1943年)12月24日)は、日本の海軍軍人、海軍大将。
経歴
[編集]薩摩藩士の野間口用輔の三男として生まれる。明治19年(1886年)、海軍兵学校(13期生)を卒業し、同21年(1888年)に少尉任官。砲艦「赤城」航海長、砲艦「龍田」回航委員(イギリス出張)、西海艦隊参謀、装甲艦「金剛(初代)」航海長、「富士」回航委員(イギリス出張)、「吉野」航海長を経て、明治31年(1898年)から翌年8月まで海軍大学校(選科学生)で学ぶ。その後、イギリス駐在等を経て、海軍省副官兼海相秘書官として山本権兵衛大臣に仕えた。
その後、巡洋艦「高千穂」艦長、「松島」艦長、「浅間」艦長、軍務局先任局員を経て、明治42年(1909年)に海軍少将・第1艦隊参謀長となり、佐世保鎮守府参謀長、海軍砲術学校長、呉鎮守府参謀長、軍務局長、呉工廠長、海軍兵学校長、舞鶴鎮守府長官、第3艦隊長官を歴任し、大正9年(1920年)に海軍大将、さらに海軍教育本部長、横須賀鎮守府司令長官、軍事参議官を経て、同13年(1924年)に予備役に編入され、昭和10年(1936年)に退役した。
人物
[編集]非常に細かい性格で、金銭の出納にもうるさかった。書類の決済の際には、同意の割合に応じて、斜めに押印したり、逆さまに押印したこともあるという。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)6月2日 - 正八位[1]
- 1892年(明治25年)3月23日 - 正七位[2]
- 1897年(明治30年)5月31日 - 従六位[3]
- 1900年(明治33年)12月5日 - 正六位[4]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 従五位[5]
- 1910年(明治43年)2月21日 - 正五位[6]
- 1914年(大正3年)6月30日 - 従四位[7]
- 1918年(大正7年)12月28日 - 正四位[8]
- 1921年(大正10年)2月10日 - 従三位[9]
- 1924年(大正13年)
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等単光旭日章[12]・明治二十七八年従軍記章[13]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[14]
- 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[15]
- 1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[16]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[17]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2379号「叙任及辞令」1891年6月6日。
- ^ 『官報』第2617号「叙任及辞令」1892年3月24日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第5230号「叙任及辞令」1900年12月6日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
- ^ 『官報』第575号「叙任及辞令」1914年7月1日。
- ^ 『官報』第1923号「叙任及辞令」1918年12月29日。
- ^ 『官報』第2557号「叙任及辞令」1921年2月12日。
- ^ 『官報』第3469号「叙任及辞令」1924年3月19日。
- ^ 『官報』第3509号「叙任及辞令」1924年5月7日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。