野村嘉六
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野村嘉六 のむら かろく | |
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生年月日 | 1873年8月10日 |
出生地 |
日本 富山県婦負郡鵜坂村 (現・富山県富山市) |
没年月日 | 1952年1月17日(78歳没) |
死没地 | 日本 東京都豊島区 |
出身校 |
東京法学院卒業 (現・中央大学) |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
(立憲国民党→) (立憲同志会→) (憲政会→) (立憲民政党→) (翼賛議員同盟→) 同和会 |
在任期間 | 1946年7月8日 - 1947年5月2日 |
選挙区 |
(富山県郡部選挙区→) (富山県第5区→) 富山県第1区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1912年5月15日 - 1942年4月29日 |
在任期間 | 1934年12月20日 - 1935年5月14日 |
富山市会議員 | |
在任期間 | 1921年5月 - ? |
富山県会議員 | |
選挙区 | 婦負郡選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1911年3月 - 1911年9月 |
野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日[1][2] - 1952年〈昭和27年〉1月17日[2][3][4][5])は、日本の政治家、弁護士[1][6][7]。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党[2]→翼賛議員同盟[4])、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎[2]。
経歴
[編集]富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ[1]。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業[2][4]。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した[2]。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した[2]。富山弁護士会長も務めた[8]。
1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した[2]。同年9月に退任した[2]。
1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に当選し、1942年(昭和17年)まで連続10回当選を重ねた[4]。その間、加藤高明内閣・第1次若槻内閣で商工参与官を、濱口内閣で文部政務次官を務めた[9][10]。また、1921年(大正10年)5月には富山市会議員に当選した[2]。さらに、1934年(昭和9年)12月20日には富山市長に選出された[11]。1935年(昭和10年)5月14日に富山市長を辞職した[12]。
1946年7月8日、貴族院議員に勅選され[13]、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[3]。
1952年1月17日22時15分、胃潰瘍のため東京都豊島区の自宅で死去した[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c 『改正衆議院議員選挙法 : 附・現代議士略歴 84コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g h i j 『富山県議会史 第2巻 523コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』151頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑 278コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『国会 5(2)(46) 31コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『代議士及候補閲歴 : 附・東京府市会議員 39コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『代議士及候補閲歴 : 附・東京府市会議員 40コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『産業之日本 422コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『帝国議会衆議院公報 第52回 31コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『帝国議会衆議院公報 第59回 36コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『富山市史 411コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『富山市史 416コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『官報』第5847号、昭和21年7月12日。
参考文献
[編集]- 北陸日日新聞社『富山県名鑑』1936年。
- 衆議院事務局『衆議院要覧(乙) 昭和12年11月増訂』1937年。
- 貴族院事務局『貴族院要覧(丙) 昭和21年12月増訂』1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
公職 | ||
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先代 金山米次郎 |
富山市長 第14代:1934年-1935年 |
次代 平田紀一 |