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野口遵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のぐち したがう

野口 遵
生誕 (1873-07-26) 1873年7月26日
金沢
死没 1944年1月15日(1944-01-15)(70歳没)
墓地 池上本門寺
国籍 日本
教育 帝国大学
職業 起業家
著名な実績 日窒コンツェルン
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旭化成富士支社にある胸像

野口 遵(のぐち したがう、したごう[1]、通称じゅん[2]1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成積水化学工業積水ハウス信越化学工業の実質的な創業者でもある。

朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州海南島にまで進出した。森矗昶鮎川義介らと共に当時「財界新人三羽烏」として並び称されていた[3]

履歴

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脚注

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  1. ^ 日窒コンツェルン』 - コトバンク
  2. ^ 日窒コンツェルン創始者の野口遵さんの名前の読み方を知りたい レファレンス協同データベース
  3. ^ 『挫折した理想国 - 満州国興亡の真相 - 』(古海忠之片倉衷現代ブック社、1967年) P218
  4. ^ 『野口遵翁追懐録』(新日本窒素肥料内 野口遵翁追懐録編纂会、1952年9月10日)
  5. ^ a b 日本窒素肥料 1940.
  6. ^ 中外商業新報 1941.
  7. ^ 我が国化学工業事業の父、死去(昭和19年1月16日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p660 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

参考文献

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関連項目

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  • 森矗昶 - 昭和肥料(現・昭和電工)を率いた実業家。野口遵が終生、ライバルとして意識していたという。奇遇にも、野口遵の日本窒素肥料は水俣病、森矗昶の昭和電工は第二水俣病という公害病を引き起こした。
  • 水豊ダム - 日本窒素工業が出資して建設を進めたが、完成直前に終戦を迎えた[1]
  • 金沢ふるさと偉人館 - 金沢とゆかりのある偉人を紹介する博物館。野口もその一人として紹介されている[2]

外部リンク

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  1. ^ (21)日本人が築いた「電力遺産」を食い潰す北朝鮮(2018年6月2日、産経新聞)2024年5月14日閲覧
  2. ^ 常設展 近代日本を支えた偉人たち(金沢ふるさと偉人館公式ページ)2024年5月14日閲覧