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鄧如琢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鄧如琢
プロフィール
出生: 1888年光緒14年)
死去: 1944年民国33年)4月
中華民国南京特別市
出身地: 清の旗 安徽省潁州府阜陽県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 鄧如琢
簡体字 邓如琢
拼音 Dèng Rúzhuó
ラテン字 Teng Ju-cho
和名表記: とう じょたく
発音転記: トン ルーチュオ
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鄧 如琢(とう じょたく、1888年 - 1944年4月)は中華民国の軍人。北京政府直隷派に属した。和璞

事績

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父は秀才だったが没落していたため、鄧如琢は貧苦の中で生活する。結局、鄧は兵士として身を立てることになり、直隷派方本仁率いる部隊に加わる。以後、鄧は軍功をあげて出世し、方の側近と目されるようになった。1922年(民国12年)6月、第9混成旅第2団団長となり、同年9月には第9混成旅旅長となっている[1]

1924年(民国13年)12月、方本仁は、直属の上官である江西督軍の蔡成勲をクーデターで下野に追い込んだ。クーデターに貢献した鄧如琢は、方から第1師師長兼南昌警備司令に任命されている。翌1925年(民国14年)3月、鄧は贛北(九江)鎮守使に就任した。同年11月、奉浙戦争孫伝芳に従い、奉天派安徽督弁姜登選を撃破、駆逐した。この功績により、鄧は安徽督弁に任命されている[2][3]

この頃、方本仁は中国国民党の台頭を見て、国内情勢の推移を見守るようになる。しかし鄧如琢は密かに呉佩孚孫伝芳の支援を獲得して、方の地位を奪おうと目論むようになった。1926年(民国15年)3月、方が家庭事情により帰郷した隙を衝き、鄧はクーデターを敢行、方を下野に追い込んでいる。鄧は、呉・孫から五省聯軍贛軍総司令兼江西督弁に任命された。しかし同年10月、鄧は国民党の北伐軍に大敗して南昌を失陥、自身も下野に追い込まれた[2][3]

晩年の鄧如琢は天津上海に寓居した。1938年(民国27年)に、蔣介石から第31集団軍総司令の地位で復帰を打診されたが、鄧は応じていない。1944年(民国33年)4月、南京特別市で病没。享年57[3]

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  1. ^ 以上、李(2009)による。徐(2007)、2373頁によると、第9混成旅旅長となったのは1921年(民国11年)。
  2. ^ a b 徐(2007)、2373頁。
  3. ^ a b c 李(2009)。

参考文献

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  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 李季「邓如琢:偏僻乡村走出的风云人物」中国亳州網、2009年8月21日。
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
姜登選
安徽督弁
1925年11月 - 1926年3月
次代
陳調元(皖軍総司令)
先代
方本仁
贛軍総司令兼江西督弁
1926年3月 - 10月
次代
鄭俊彦