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郭義栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1958年

郭 義栄(クァク・ウィヨン、クァク・イヨン、朝鮮語: 곽의영/郭義榮1911年6月28日または1912年6月28日[1]または1914年[2] - 1992年8月15日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国公務員政治家実業家槐山郡郡守清原郡郡守、第2・3・4代韓国国会議員、第8代逓信部長官を歴任した[1]本貫清州郭氏朝鮮語版[3]

経歴

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日本統治時代の忠清北道清原郡出身。清州高等普通学校(現・清州高等学校朝鮮語版)、京城法学専門学校卒。朝鮮総督府の官吏として忠清北道の金融経済行政・産業行政分野で働いた後、光復後に槐山郡守、清原郡守、忠清北道鉱工課長・商務課長を歴任した。1950年の第2代総選挙では清原乙選挙区から無所属で出馬・当選し、国会においては財政経済分科委員・農林分科委員・予算決算委員を務めた。1954年の第3代総選挙では自由党の候補として同選挙区から出馬・当選し、国会においては初代復興分科委員長・行政機構および処遇改善特別委員・海外米穀輸出特別対策委員・都市計画推進委員を務めたほか、全国儒道会総本部中央委員、大韓農民会中央本部指導委員、社団法人大韓警察遺族会顧問、自由党院内副総務・院内政策委員長・忠清北道党副委員長を務めた。1958年の第4代総選挙では同党の候補として同選挙区から出馬・当選し、国会においては財政経済分科委員・予算決算分科委員を務めた。1958年9月9日から1960年5月1日まで第8代逓信部長官を務めた。このほか、大韓アマチュアレスリング協会会長、忠北農民会会長などを務めた。4・19革命以降は反革命勢力として糾弾され、監獄まで行った。1967年の第7代総選挙では新民党から出馬したが、激戦の末惜敗した。政界引退後は酒精協会会長、セマウル金庫連合会副会長、林光土建会長、大盛工業会長、再建国民運動中央会副会長、聖実老人大学学長、大韓民国憲政会副会長・会長などを務めた[1][4][2]

1992年8月15日、持病によりソウル大病院で死去。享年80(1912年6月28日生とした場合)[5]

脚注

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  1. ^ a b c 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2024年11月6日閲覧。
  2. ^ a b 근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2024年11月6日閲覧。
  3. ^ (29) 청주곽씨(淸州郭氏) 시조 곽원 … 고려때 형부상서 역임” (朝鮮語). 충청일보 (2012年8月30日). 2024年11月7日閲覧。
  4. ^ 양동안, “곽의영 (郭義榮)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院), https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0004688 2024年11月6日閲覧。 
  5. ^ 前(전)체신장관 郭義榮(곽의영)씨”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1992年8月17日). 2024年11月6日閲覧。