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郝晷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郝 晷[1](かく き、生没年不詳)は、五胡十六国時代の人物。太原郡の出身。

生涯

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前燕に仕え、散騎侍郎に任じられていた。

建熙10年(369年)10月、前燕と前秦は誼を結んでいたため、使者が両国間を往来していた。郝晷は前秦に度々使者として来訪していた。郝晷は前秦の尚書令王猛と以前から交友関係にあった。王猛は郝晷に前燕の様子を問うた。郝晷は前燕が滅ぶと見ており、王猛に自身を託そうと密かに考えて、前燕の現状を包み隠さず話した。

前燕が滅ぶと前秦に仕えた。

建元8年(372年)2月、清河相に任じられた。

淝水の戦いに大敗した前秦は混迷の極みにあり、郝晷は冀州諸郡の人々を集めて部曲として河南に拠り、翟魏の官爵を受けていた。

建興6年(391年)、翟魏が後燕に敗れるとこれに降った。後燕皇帝慕容垂は適材の任に就かせた。

これ以後の事績は、史書に記されていない。

人物・逸話

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建熙11年(370年)12月、王猛は諸将や属官とともに宴を開いた。王猛は「人心は同じではない。梁琛は長安で前燕を美化し、楽嵩桓温の強盛ぶりを述べ、郝晷は前燕の疲弊ぶりを説くほどだ」と述べた。参軍馮誕が「その三人は今、我が国の臣でありますが、誰の意見を先に取られますか?」と問うた。王猛は「郝晷は僅かな兆候を知ることができるので、彼を先に取るだろう」と答えた。馮誕は「明公 (王猛) は丁公を賞して季布を誅するのですな」と述べた。王猛は大笑した[2]

脚注

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  1. ^ 『資治通鑑』巻103では、郝略と記されている。
  2. ^ 『資治通鑑』巻102

参考文献

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