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道童

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

道童(? - 1358年)は、大元ウルスに仕えたウイグル人

概要

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道童はカラ・ホジョ(高昌)出身のウイグル人で、仕官した後は信州路総管、1341年(至正元年)からは大都路ダルガチ・江浙行省参知政事・参政中書・江浙行省右丞・本省平章政事といった職を歴任した[1]

1351年(至正11年)には江西行省の平章政事に任じられたが、この歳は蘄州・黄州で紅巾の乱が勃発した。そこで平章政事の禿堅理不花が兵を率いて江州に向かうことになったが、軍事に疎い道童は城の防備のすべを知らなかった。この時、左右司郎中のブヤン・ブカが章バヤンなる人物が職を辞して撫州に居住していおり、軍務に熱知しているため、教えを請うてはどうかと提案した。道童もこの意見に賛成してともにバヤンの下を尋ねたところ、バヤンは「これぞまさに報国の時である」と述べて快諾し、教えを受けて道章は軍務に熱知するようになったという[2]

1352年(至正12年)正月には湖広が陥落し、敗れた禿堅里不花も江州より逃れ帰ったため、同年2月には新たにブヤン・ブカが反乱鎮圧のため派遣された。しかしブヤン・ブカも石頭渡で敗れてしまったために道童は省印を携えて一旦城から逃れたが、バヤンらの働きによって城の守りが堅固なものとなると、道童も城に帰還した。3月、城は紅巾軍の包囲を受けたが、道童は功績ある者には必ず褒賞を与え、功なき者もむやみに処罰することなく、配下の将兵をよく用いたため、包囲を耐え抜いた。包囲戦が二か月にわたるころ、道童は密に死士数千人を選び、顔を青く塗って黄布・黄衣を着せ、前鋒軍とした。さらに数戦の精鋭を選んで中軍とし、殿軍も含めて三段の軍団を編成した上で、万戸の章妥因卜魯哈歹に指揮をゆだねた。この奇襲軍は夜間の内に城外に出て潜み、黎明に敵軍を急襲して敗走させることに成功した。この一戦では章バヤン、ブヤン・ブカらの功績が大きかったが、バヤンはこの後間もなく病によって死去してしまった。この功績により道童は大司徒・開府の位を加えられ、龍衣・御酒を下賜された[3]

同年秋、朝廷はイリンジバルを江西行省左丞相に、コニチを左丞にそれぞれ任命して江西に援軍として派遣したが、イリンジバルは急死してしまったため、コニチと道童らが江西の守りを担うこととなった。このころ道童は高州・瑞州を平定したが、この年は干ばつとなってしまった。そこで道章は江浙行省に働きかけて米・塩を借り入れ、民の暮らしを救った。このためこの地方の暮らしは安定し、数年にわたって賊の侵攻を寄せ付けなかったという[4]

1358年(至正18年)4月、陳友諒が再び江西城攻めを始めたが、このころ平章政事に昇格になったコニチと道童の間で不和が生していた。もともと将士の支持を得られていなかったコニチは、城が陥落しそうになると夜に逃げ出してしまった。道童も江西城を出て義兵を募り城の奪還を図るも、大勢は覆しがたいことを悟った。そこで道童は「我は大臣となり官位は極品に至りながら、城を陥落させて守ることができず、何の面目をもって人に見えることができようか」と語り、敢えて敵兵を迎え撃って殺されたという[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻144列伝31道童伝,「道童、高昌人、自号石巖。性深沉寡言、以世冑入官、授直省舍人、歴官清顯、素負能名。調信州路総管、移平江、皆以善政称。至正元年、遷大都路達魯花赤、出為江浙行省参知政事、尋召参政中書、頃之、又出為江浙行省右丞、遂陞本省平章政事」
  2. ^ 『元史』巻144列伝31道童伝,「十一年、詔仍以平章政事行省江西。是年、賊起蘄・黄、平章政事禿堅理不花将兵捍江州。既而土寇蠭起、道童素不知兵事、倉皇無所措。左右司郎中普顔不花曰『今賊勢衝突、城中無備、万一失守、奈何。有章伯顔左丞者、致仕居撫州、其人熟知軍務、宜以便宜礼請之、使署本省左丞事、專任調遣軍旅、庶幾事有可濟』。道童従其言、而伯顔亦欣然為起、曰『此正我報国之秋也』。至則与普顔不花設禦敵計、甚悉」
  3. ^ 『元史』巻144列伝31道童伝,「明年正月、湖広陷、禿堅里不花由江州遁還。二月、普顔不花将兵往江州、至石頭渡、遇賊戦敗、道童聞之大恐、即懷省印遁走。普顔不花還、与伯顔定為城守之計。後数日、道童始自南昌民家来帰、遂議分門各守以備敵。三月、賊衆来囲城。城中置各廂官及各巷長、晝夕堅守、衆心翕然。而道童素恤民、能任人、有功者必賞、無功或不加罪、故多為之用。賊囲城凡両月而民無離志。道童密召死士数千人、面塗以青、額抹黄布、衣黄衣、為前鋒、又別選精銳数千為中軍、而募助陣者殿後。命万戸章妥因卜魯哈歹領之。夜半、開門伏兵柵下、黎明、鉦鼓大震、因奮擊賊、賊驚以為神、敗走。遂乗勝擣其営、復分兵掃其餘党。是時、章伯顔・普顔不花之功居多。伯顔尋以疾卒。朝廷以道童捍城有功、加大司徒・開府、仍賜龍衣御酒」
  4. ^ 『元史』巻144列伝31道童伝,「及秋、朝廷命亦憐真班為江西行省左丞相、火你赤為左丞、同将兵来江西。未幾、亦憐真班卒、道童属火你赤平富・瑞二州、分鎮其地。適歳大旱、公私匱乏、道童乃移咨江浙行省、借米数十万石・塩数十万引、凡軍民約三日人糴官米一斗、入昏鈔貳貫、又三日買官塩十斤、入昏鈔貳貫、民皆便之。由是按堵如故、而賊亦不敢犯其境」
  5. ^ 『元史』巻144列伝31道童伝,「十八年夏四月、陳友諒復攻江西城。時火你赤已陞平章政事、加営国公、行便宜事、任專兵柄、而素与道童不相能、且貪忍不得将士心、見城且陷、遂夜遁去。道童亦棄城退保撫州路、欲集諸県義兵以図克復、而勢已不可為。因嘆曰『我為元朝大臣、官至極品、今城陷不守、尚何面目復見人乎』。適賊追者至、道童欲迎敵、渡水、未登岸、賊衆乗之、遂為所害。事聞、賜諡忠烈」

参考文献

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  • 元史』巻144列伝31道童伝
  • 新元史』巻215列伝112道童伝