造長岡宮使
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造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)は、奈良時代末期の長岡宮造営に際し、同事業のために臨時に置かれた令外官。
概要
[編集]→詳細は「長岡京」を参照
初見は『続日本紀』巻第三十八で、延暦3年(784年)6月に、
- 中納言従三位藤原朝臣種継
- 左大弁従三位佐伯宿禰今毛人
- 参議近衛中将正四位上紀朝臣船守
- 散位従四位下石川朝臣垣守
- 右中弁従五位上海上真人三狩
- 兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚
- 造東大寺次官従五位下文室真人忍坂麻呂
- 散位従五位下日下部宿禰雄道
- (散位)従五位下丈部大麻呂
- (散位)外従五位下丹比宿禰真浄
の10名が任命されたとある[1]。このほかにも六位以上の官人が8名存在する大所帯であり、同年12月に桓武天皇は詔により、造宮に功労のあったものに位階を賜ったとあるが、正六位上から外従五位下に昇叙されたとされる佐伯宿禰葛城・奈良忌寸長野・大神楉田朝臣愛比・三使朝臣清足・麻田𤝗賦・高篠広浪の6名が、この官人であった可能性がある[2]。
また、延暦8年(789年)8月、
造宮の官人已下、雑工(ざふく)已上に、労に随(したが)ひて位を叙し、幷せて物賜ふこと差(しな)有り
とあるが[3]、この年の2月に天皇は(新宮殿が完成して)西宮より東宮に移御したとあり[4]、このことが、長岡宮造宮の画期的なこととして叙位が行われたものと見られる。いずれにしても、長岡京の造営が順調に進んでいたことが窺われる。