コンテンツにスキップ

車田秋次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
車田秋次
生誕 1887年4月10日
茨城県東茨城郡下古内(現・城里町
死没 1987年
東京都
出身校 柏木聖書学院テイラー大学
職業 牧師神学校教師
テンプレートを表示

車田 秋次(くるまだ あきじ、1887年4月10日 - 1987年)は日本の牧師ホーリネス教会の初期に、中田重治監督の側近の五教授の一人として活躍。戦後は、日本ホーリネス教団の創設者で、同教団の指導者となった。

生涯

[編集]

初期

[編集]

1887年、茨城県東茨城郡下古内(現・城里町)の農家の三男に生まれた。1901年3月に高等小学校の課程を卒業したが、経済上の理由で中学には進学できず電信員になった。[1]1904年 宇都宮でアーネスト・A・キルボンに英語を学び、山崎亭治森五郎と共に、中田重治より洗礼を受ける。

上京して東洋宣教会聖書学院で学び伝道者になるが、1908年頃に日本基督教電信員協会の伝道者になり、チャールズ・カウマンとアーネスト・キルボルンの応援により、「天よりの電報」(焔の舌の別冊)を発行した。[2]

1912年5月、キルボルンと共に、朝鮮に渡り、京城に建設した聖書学院の献堂式に出席した。[3]1914年 聖教団事件の後に辞任した笹尾鉄三郎の後をついで、淀橋教会の二代目牧師に就任する。すぐに中田重治が淀橋教会三代目の牧師になる。1924年の年会で柏木聖書学院の院長に就任する。6年後に中田重治に院長を引き継ぐ。後に、アメリカのテイラー大学で学び、神田ホーリネス教会を牧会しながら、聖書学院の院長を務めた。

分裂事件

[編集]
聖書学院の五教授(左から、米田豊、一宮政吉、菅野鋭、小原十三司、車田秋次)

1933年 五教授(車田秋次米田豊小原十三司一宮政吉菅野鋭)の一人として、中田重治監督を解任する。1936年10月 ホーリネス教会が中田派のきよめ教会と分裂(ホーリネス分裂事件)して、日本聖教会が設立され、車田が初代監督になる。

迫害

[編集]

1941年 日本基督教団が設立された時に、第六部の代表である参与になる。1942年6月 車田が神田教会の牧師の時に、車田らホーリネス系の牧師たちが治安維持法違反で一斉に検挙される。一審で懲役2年の実刑判決を受ける。

戦後

[編集]

1949年 東洋宣教会の三代目理事長のレテー・カウマンより、ホーリネス教会再建の申し出があり、日本ホーリネス教団を創設して、初代総理になる。1950年 東京聖書学院を創設して、院長になる。1961年 日本ホーリネス教団の代表として、新改訳聖書刊行会に加わる。

1967年 総理制を廃止して、委員制になり、初代院長に本郷善次郎が就任する。1976年 東京聖書学院の院長を引退して、名誉院長になり、小林和夫が院長になる。

1982年日本キリスト教文化協会からキリスト教功労者の表彰を受ける[4]。1987年 死去

脚注

[編集]
  1. ^ 池上良正『近代日本の民衆キリスト教』p.129
  2. ^ 『中田重治伝』174-175ページ
  3. ^ 『中田重治伝』213ページ
  4. ^ 日本キリスト教文化協会 顕彰者一覧※2022年10月23日閲覧

著書

[編集]
  • 『御霊の法則、わが生涯の回想』
  • 『聖潔のバプテスマ』1987年
先代
中田重治
柏木聖書学院院長
第3代:1924年-1930年
次代
中田重治
先代
笹尾鉄三郎
淀橋教会主任牧師
第2代:1913年-1915年
次代
中田重治
先代
東京聖書学院院長
初代:1950年-1976年
次代
小林和夫
先代
初代
日本ホーリネス教団総理
初代:1949年-1967年
次代
初代委員長・本郷善次郎