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赤井直義

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赤井 直義
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀2年(1571年
死没 承応2年(1653年
改名 金十郎、荻野金左衛門(金右衛門[1])、赤井悪右衛門[2]
別名 悪右衛門(通称
主君 織田秀信小野木重勝有馬豊氏藤堂高虎
伊勢津藩
氏族 荻野氏、赤井氏
父母 父:荻野直正、母:不明
兄弟 荻野直信[3]直義、弥七郎[2]
直綱[2]
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赤井 直義(あかい なおよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将荻野直正の子。通称は悪右衛門。

生涯

丹波国黒井城主・荻野直正の二男として生まれる[2]

天正6年(1578年)に父・直正が死去し、長子である悪七郎直信がその跡を継いだ[3][注釈 1]。天正7年(1579年)、黒井城は明智光秀に攻められて落城し、当時9歳だった直義は城から逃れた(黒井城の戦い[2][6]。その後、荻野金左衛門(または金右衛門)に名を改め、隠棲している[1][2]

後に織田秀信の旗本となって、朝鮮出兵に従った[2]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は、西軍の小野木縫殿佐に牢人分として従い、丹後国田辺城攻めに加わった(田辺城の戦い[2]。その後、有馬豊氏に一時仕えるも退去[2]慶長15年(1610年[7]山口直友の仲介で藤堂高虎に仕えて1,000石を与えられ、先祖の名に戻すよう命じられ、赤井悪右衛門へと改名した[2][7]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では鉄砲組20人を引き連れて、渡辺勘兵衛とともに先手を務め、翌慶長20年(1615年)の夏の陣では母衣役を命じられた[2]

承応2年(1653年)、死去[注釈 2]。子の直綱(弥平次、のち悪右衛門[8])がその跡目を継ぎ、1,000石の知行も引き継いだ[2][8]

2010年平成22年)、赤井氏が居住した赤井家住宅が国の登録有形文化財に登録され[9][10]2011年(平成23年)、直義の子孫から伊賀市へと寄贈された[11]

脚注

注釈

  1. ^ 『丹波戦国史』では、この時直正の長子の直照が早逝していたため、叔父・赤井幸家の後見のもとで直義が家督を継いだとされている[4]。また、同書では「悪七郎直信」は幸家の別名とされている[5]
  2. ^ 『公室年譜略』に直綱の家督継承が承応2年とあること[8]、および『赤井先祖細記』に直綱の家督継承と直義の死を同年とする記述があること[2]による。

出典

  1. ^ a b 芦田ほか 1973, p. 337.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『赤井先祖細記』(兵庫県春日町編『史跡 黒井城跡 保存管理計画策定報告書』兵庫県春日町、1993年、史料編21-23頁)。
  3. ^ a b 福島克彦 著「荻野直正(赤井直正)―明智光秀の前に立ちはだかった"名高キ武士"」、天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年、167–168頁。ISBN 978-4-86403-447-0 
  4. ^ 芦田ほか 1973, pp. 307–308.
  5. ^ 芦田ほか 1973, p. 309.
  6. ^ 芦田ほか 1973, pp. 328–337.
  7. ^ a b 喜田村矩常 編. “『公室年譜略』巻第八”. SHIPS Image Viewer. 東京大学史料編纂所. pp. 80–81. 2023年9月21日閲覧。
  8. ^ a b c 喜田村矩常 編. “『公室年譜略』巻第二十四”. SHIPS Image Viewer. 東京大学史料編纂所. p. 120. 2023年9月21日閲覧。
  9. ^ 登録有形文化財『赤井家住宅』をご利用ください”. 伊賀市ホームページ. 伊賀市 (2020年3月12日). 2021年11月25日閲覧。
  10. ^ 施設概要”. 赤井家住宅. 公益財団法人伊賀市文化都市協会. 2019年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月21日閲覧。
  11. ^ 【三重】赤井家住宅を初の一般公開”. 中日旅行ナビ ぶらっ人. 中日新聞 (2013年4月17日). 2021年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月21日閲覧。

参考文献

  • 芦田確次; 青木俊夫; 村上完二; 船越昌『丹波戦国史』歴史図書社、1973年。全国書誌番号:73010861