コンテンツにスキップ

貞心尼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

貞心尼(ていしんに、寛政10年(1798年) - 明治5年2月11日1872年3月19日))は、江戸時代後期の曹洞宗尼僧良寛の弟子。歌人。俗名は奥村ます。法名は孝室貞心比丘尼(こうしつていしんびくに)、孝室貞心尼(こうしつていしんに)。

貞心尼の法名をもつ尼僧は複数いるが、この記事では良寛愛弟子の孝室貞心尼について述べる。

経歴

[編集]
貞心尼の名を一般に広めたのには、大正初期に刊行された『北越偉人沙門良寛全伝』(西郡久吾著)および『北越名流遺芳』(今泉鐸次郎著)の二著に貞心尼の名前と『はちすの露[1]』が紹介されたことが基となり、やがて昭和初年、相馬御風の『良寛と貞心』その他一連の良寛研究で普及した。 — 小出町教育委員会 、『小出町史』上巻、1996, p. 1015.

孝室貞心尼は、長岡藩 奉行組士 五代 奥村五兵衛(嘉七)[2]の次女・ます として寛政十年、越後国長岡(現:新潟県長岡市)に生まれた。『柏崎文庫』(別名『甲子次郎文庫』、関甲子次郎著:せききねじろう)第11巻9頁に「釋迦堂庵主 貞心尼 長岡藩士 奥村五兵衛の二女 寛政十年」と記されている(柏崎市図書館ソフィアセンター所蔵)。

貞心尼の本名「ます」については1958年(昭和33年)に木村秋雨の調査によって判明した。天保某年(五年頃といわれる)に小出[3]を訪れた貞心尼は、画人・松原雪堂[4]を訪ね、良寛肖像画を描いてもらいたいと依頼。その画の礼に良寛からの手紙を渡した。

先日は眼病のりやうじがてらに与板へ参候。そのうへ足たゆく腹(はら)いたみ、御草庵(えんま堂)もとむらはすなり候。寺泊の方へ行かん(と脱)おもひ、地蔵堂中村氏に宿り ゐまにふせり、また(まだ)寺泊へもゆかす候。ちきり(契り)にたかひ(違い)候事 大目に御らふ(覧)じたまはるべく候。

  秋はぎの花のさかりもすきにけり ちきり(契り)しこともまたとけ(遂げ)なくに

 御状は地蔵堂中村にて 被(披)見致候[5]  良寛

 八月十八日

あて名がないのは貞心尼が切り取ったからとされている。

 この書幅にはさらに一つの逸話がある。それは貞心尼の本名であるが、実に昭和も戦後しばらくまで不明とされてきたもので、「ます」と分かったのは、この書幅の巻き止めに、「升尼あて」(升すなわちマス)と書かれてあったことによるという(木村秋雨『貞心尼雑考』昭和三十三年)。おそらく書幅の最初の所持者 雪堂家で覚えとして記したものであろう。  — 小出町教育委員会 、『小出町史 上巻』1996, p. 1014.

俵谷由助著『良寛の愛弟子 貞心尼と福島の歌碑』[6]によれば、菩提寺・長興寺にある「天明四年甲辰(一七八四年)五月吉日常什物[7]」に、同家の過去帳が記され、「[8]十三世慧剛大和尚が書きおかれた奥村家の過去帳が現存している」という。

俵谷はその所在を、「牧野藩奉行組士」「奥村五兵衛祖 又は嘉七 奉行組士二十五石鉄砲蔵師」[9]、「五代 明岳智燈居士 文政九丙戌正月朔日」と記述し、奥村家の過去帳[10]にも「壱日 文政九戌正月 五代五兵エ」[11]とあることから、貞心尼の父は、文政九年一月一日(1826年2月7日)に亡くなっている。

上杉艸庵[12]は「鉄砲台師」と記述している[13]

前号所載、私達が貞心尼の生家、奥村の家を訪ねたのは、今昨年の日記を見ると実に昭和二年一月十七日である。其の時の模様は今ここでは略するとして、仝家の過去帳ーーこれは仝家の菩提寺長興寺にて写したもの[14]ーーを掲げてみる。   二十五石 荒屋敷 奥村嘉七  御鉄砲台師 五兵衛  奥村五兵衛 先祖 又は 嘉七 — 上杉艸庵 、「貞心雑考」中村昭三編『貞心尼考』1995, p. 23

〔俵谷は「鉄砲蔵師」、上杉は「御鉄砲台師」としているが、長興寺の過去帳を確認するしかない。上杉の「鉄砲台師」は実際の要職であり、具体的で信憑性がある。魚沼市 櫻井彦右衛門によれば、「五兵衛」「右衛門」は長男に付けられる名前であり、「嘉七」「彦助」は長男の名前ではないという。したがって、「嘉七」は、分家した初代の名前と考えられる。〕

幼少期(1~13歳)

[編集]

奥村ます[15]は、3歳で実母を亡くし、継母に厳しく育てられた。行灯に覆いをかけて、人目をしのんで本を読んだり、囲炉裏の灰に文字を書いた。また、賃糸仕事をして決まった額を親に渡し、残りのお金で筆と和紙、墨を買った。12歳のとき、柏崎の佐藤彦六の娘「梅」(佐藤平の養母八重の母)が奥村家のとなりの家で女中奉公をしていて、ますを柏崎によく遊びに連れていった。14歳頃に長岡城で御殿奉公をしている。

母については、上杉と俵谷は「月光貞円大姉 寛政十二庚申年十月九日(1800年11月25日)五代妻」、同家過去帳にも「九日 月光貞園大姉 寛政十二年十月 貞心尼母」とあることから、奥村ます3歳[16]のときに亡くなっている[17]。ますの継母について俵谷は「(五代後妻)実悟妙道大姉 天保四年癸巳正月廿二日 後妻(貞心尼継母)」と記し、同家過去帳にも同様の記述があり、貞心尼36歳のときに亡くなっている。

兄弟については、俵谷の以下の記述から二人の男兄弟がいたことがわかる。したがって、法名等の不明は長女だけである。 (六代) 法山道輪居士 天保八丁酉年五月十二日 六代五兵衛事(貞心尼兄弟)      法山紘道居士 天保十二辛丑年五月廿一日 五兵衛ノ子(貞心尼兄弟)

釈迦堂の貞心尼の孫弟子で70歳位の尼は1950年(昭和25年)3月に語った。

貞心尼様は長岡藩の奥村の娘で継母にきびしく育てられ、アンドンに覆[18]をして人目をしのんで学んだ、ときいています。 柏崎からお梅さんという「こんな眼の」と片目をつむって見せる。このお梅さんについて柏崎へ幼時よく来られたのが因縁となって、たまらなく懐かしいところで此処[19]で住みたくなったという — 松原啓作 、「貞心尼 春の釈迦堂に貞心を聴く」『小出郷新聞』1950年3月20日

薬師堂の庵主は1959年(昭和34年)4月17日にこう語った。

10歳の頃、初めて海を見て「こんなところで本を読んでいたいなあ」と独り言をした — 松原啓作 、「遺墨と史跡 史跡の柏崎を探ねる」『小出郷新聞』1959年4月23日

薬師堂の座敷から海を見下ろした景色は活きた絵である。薬師堂の縁端に腰を掛けて独り言したという。

12歳の時、柏崎で「讀書[20]消日[21]せば嬉しからんと獨語[22]す」(『柏崎文庫』第11巻9頁: 1884年(明治17年)より起稿された)とあり、薬師堂庵主の言った内容と一致する。

中村藤八は、1911年(明治44年)5月21日午前、釈迦堂の智譲尼[23]を訪れ、貞心尼について聞き書きした。

〔前略〕庵主様(智譲チジヤウ)尼より聞取書 貞心尼ハ長岡旧藩士奥村某家ニ生レ(長岡新屋敷)〔中略〕貞心尼ハ幼ニシテ母親ト別レまゝとナリ(賃糸ヲ取リ親ノ前ヘハ毎日〃〃申付ケ丈ケ出シ其余金ヲ得テ筆墨紙ヲ求メ学文[24]ヲセラテタルトノ事(イロリニカヤヲ焼クニ手拭ヲカブリ)ロ(ろ)ノ中ニテはゑガキ[25]シタモノナリ 御前方[26]ハ朝夕ニ仮床[27]シテ居テ学文己出来ルモノニ無之[28]〔後略〕 — 中村藤八 、『浄業餘事』柏崎市図書館[29]

  上杉艸庵は、こう述べている。

貞心尼が十二の年に柏崎の其の生家の女中ーー柏崎本町四丁目佐藤平の先代、佐藤平の養母八重女の母なる人に、「海がみたい」という所から、其の女中の親分たる柳橋の関谷大八氏へ泊まりに来て、かの中浜の薬師堂の付近に遊び、其の風光明媚なるに心ひかれて「こういう処に尼さんのような生活がしたい」と低徊[30]去りえなかったと言い、…〔後略〕 — 上杉艸庵 、「貞心雑考」中村昭三編『貞心尼考』1995, p. 20

相馬御風は、次のように述べている。

それにしても貞心尼が何故自分の剃髪の地として特に柏崎を選んだかというに、それにはこうした因縁がある。それは彼女がまだ長岡の生家に愛育されていた頃のことであった。彼女の家の隣家に柏崎の佐藤彦六というものの娘が女中奉公をしていた。その女は少女時代の貞心を殊の外かあい[31]がって、時々柏崎の話をして聞かせた。わけても長岡では見ることの出来ない海についてのいろいろの話が、少女の好奇心をそそらずにはいなかった。 そして彼女の十二歳の時、ついにその海に対するあこがれに駆られて、彼女は隣家の女中に連れられて柏崎へと海を見に出かけた。初めて見た海の光景は、彼女にとりてはたしかに一種の驚異であつた。就中柏崎郊外の中濱[32]というところにあった薬師堂附近の明媚[33]な風光が、兎角[34]物に感じ易かった彼女の心に消し難い印象をのこした。「いつまでもいつまでもこんなところにいたいものだ」というようなその土地に対する愛着が其の場合彼女の胸に湧き起ったのであった。こんなわけで、後年彼女が人生の無常を感じて出家遁世[35]の志を抱くようになった際にも、先[36]ず第一に彼女の心に描き出された隠棲の地はその柏崎郊外の薬師堂であった。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 21
貞心尼は字も能[37]く書き、歌も能く詠み、文章も能く書いた。良寛和尚に遇った最初から歌の贈答をしているところから見ると、娘時代から相当に教養を与えられていたのであろう。 とにかく娘時代から貞心尼がすぐれた才女であったであろうことは想像出来る。そして又かなり勝気な性質の女であったろうことも窺われる。 — 相馬御風 、「貞心尼雜考」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 63

長岡城に御殿奉公(14~15歳頃)

[編集]

奥村ますは、長岡城(現在の上越新幹線長岡駅付近が城跡)の御殿奉公[38]をしていた(14歳頃か?)。竜光(現:魚沼市竜光)で幼少期を過ごした星杏子が娘の頃に、竜光 下村家の分家の72歳の婆さんから度々聴いた話。[39]

〔貞心尼は〕七十五歳で亡くなるまで、七百三十五首余の歌をのこした。特に三十歳で良寛と知り合ってから、その才能が花開いたといってよい。武家の娘であれば、当然に花、茶、歌の心得はあったであろう。だから良寛と知り合う以前から、堂上派的な歌を作っていたと思われるが、よくわからない。 — 谷川敏朗 、「良寛と貞心尼のこころ」『良寛と貞心 その愛とこころ』1993, p. 20

結婚の相手 文化九年

[編集]

関長温[40] 魚沼郡 龍光村[41] 庄屋 下村藤蔵 次男として、天明六年ころ生まれる。[42] 幼くして医を志し、吉水村の漢方医で御殿医でもある 関道順[43]に養子入りした。 長岡城に師匠とともに随伴したときに、奥村ます(のちの貞心尼)を見初める。 ますは、かんざしを渡したという伝承が残されている。 こうして、武家娘と漢方医という身分差のある結婚により、ふたりは龍光村 下村家で挙式し、吉水の師匠のところへゆき、その後、小出嶋村に行った。(小出郷新聞「小出と貞心尼」)

貞心尼が出家する前に嫁いだと言う、北魚沼郡小出町在の龍光村(目下、堀の内村)[44]医師某[45]とはどんな人か、…同字[46]区長 下村東作氏から懇篤なる御返事を頂いた…。「…実は、自分の家は、明治の初年より不幸続出、相続人が大抵短命で私も廿[47]歳頃父と別れる等の関係で、…僅かに残って居る記録を…たどるより外ありません。 

一透了関居士(六代 清右衛門弟 医業) 関 長 温

始同郡吉水村医 関道順の養子となり其後小出島に開業  文政十亥二月十四日小出島に於て卒[48]す。 

 …年頃と言い、医師、小出島、龍光等を綜合して来ると、此の関長温の家内が貞心尼らしく思われます。幼少の頃養家にいったらしく、…私の家で今でも年忌も行い、霊会日鑑にも載って居る処から見ますと、或は嗣子[49]もなく養家にも骨は納まらぬのではなかったかと想像されます。…漢方医者の色々の道具が私の土蔵にあって、私共兄弟が幼少の頃玩具にして遊んで大抵壊してしまった様であります。夫等から見ると死歿すると同時に業をやめ…。序[50]ながら六代清右衛門の家内は長岡藩士木村儀右衛門娘とあり、法名密藏院解脱妙海大師とあります…。…一月三十日 下村東作 」 — 上杉艸庵 、「貞心雑考」中村昭三編『貞心尼考』1995, pp. 51~54

結婚時代 文化十年~文政四年(16歳~24歳)

[編集]

「月天心」という酒を醸造した龍光(現:魚沼市竜光)下村酒造の家において、挙式したと伝えられる。(詳細を編集予定)

結婚時代の住居跡は、長らく不明であったが、魚沼良寛会の調査により、小出嶋村下町北 西井口家 代門(ダイモン)であることがわかった。(下記古文書史料より「代門」となる。)

縁付キタル内トテ机ニ向ヘ字ヲ而巳[51][52]書致シ居ラレタルよし 往年其近傍之人[53]来リ智譲尼へ物語タルトカ — 中村藤八 、『浄業餘事』[29]
文政三年(1820年)十二月二十二日「一 同米壱俵 代門(だいもん) ○長温かし」(文政三年 西井口家『日鑑』。この○の意味不明 — 山本哲成[54] 、「新資料により覆される「浜の庵主さま伝承」良寛・貞心尼と魚沼市」2007, p. 28

夫との離縁(文政四年秋頃 24歳頃)

[編集]
貞心尼離縁(八、九年間夫婦トナル) — 中村藤八 、『浄業餘事』
文政四年(1821年)五月五日「天気よし 七日市(なのかいち) 神楽来(かぐらきた)ル 立山(たてやま) 開帳参詣(さんけい) 山行 入用 茂兵衛より 鯛壱枚 代二百五拾文 鱒(ます)二百廿五文 玉子 すや出す 代八拾文 酒二升 右之割(みぎのわり)雄兵衛 素面(すずら) 長温内[55] 外 もち代」(文政四年(1821年) 西井口[56]家『日監』。) (この端午(たんご)の節句に大旦那様は気心の知れた人達と恒例の山遊参(やまゆさん 山遊び)をします。そこに関長温のご内儀(ないぎ)が割り勘の外に餅代を出した、と読めます。)(この時点でます婦人は小出島[57]に居たと考えます。)(智譲尼が「五・六年」とも「八、九年」とも言う婚姻の期間は八・九年間だったと思います。)この年の日記体の備忘録『日監(にっかん)』は、この五月十七日以降は見あたりません。 — 山本哲成 、「新資料により覆される「浜の庵主さま伝承」良寛・貞心尼と魚沼市」2007, p. 30

出家・柏崎新出(しで)の山(文政五年 25歳頃~30歳)

[編集]
彼女[58]が其の中濱[32]の薬師堂を訪ねた時には、折あしくそこの庵主は不在であった。と云って一旦発念した出家の志をそのまま抑えていつまでも安閑としているわけにもゆかなかったので、彼女は勧める人のあるにまかせて矢張[59]柏崎郊外の下宿村新出(しで)の山というところに庵[60]を結んでいた眠龍[61]、心龍[62]の二人の尼僧を訪ねて、そこでいよいよ剃髪の身となった。(因[63]にいう、貞心剃髪の新田(しで)[64]の山の庵室はその後眠龍、心龍の両尼が柏崎の釈迦堂に移ってからはひどく廃頽して今日ではその跡方もないということである。) 二十五歳の若さで、しかも人並すぐれた美貌の持主であった剃髪当時の貞心は、とにかく土地の人々の噂の種となった。師匠の命令で山へ薪[65]採りに行ったりすると、村の人達が目をそばだててこそこそ何かささやき合ったりしてかなりうるさかったという話である。そしていつの間にか村人達の間に「姉さ庵主(あんじゅ)」という仇名[66]さえ云いふらされるようになった。此の眠龍、心龍両尼の受業[67]の下に、貞心は二十七歳の頃まで苦しい修行をつづけた。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 21~22

長岡・福島 閻魔堂時代(文政十年三月~ 30歳~44歳)

[編集]

上杉艸庵が智譲尼から聴いた話に、こうある。

又福島[68]時代を思っては『福島、稲葉には、勧進(物乞い)に出る者が多かった。わし[58]托鉢に出るとその後に婆さん達が二三人もついてくる。そうして出ると貰[69]いが沢山あるので、婆さん達はすかさず私の後え廻る。そして私が長岡の荒屋敷(貞心尼実家奥村家)へ廻って点心(昼食)をすまして帰る頃は、婆さん達はとうに帰っていた』と言はれた。 — 上杉艸庵 、「貞心雑考」中村昭三編『貞心尼考』1995, p. 146
そして二十八歳(?)[70]の時に師[71]の許[72]を離れて古志[73]郡福嶋[68][74]の閻魔堂に住むことになった。福嶋は彼女の郷里長岡からは僅かに二里を隔てたところであるから、彼女がそこに住むようになったのも郷里に近いということが一つの原因でもあったとおもう。この福嶋の閻魔堂に貞心尼は十余年間住んでいた。年齡からいうと二十七八歳頃から四十歳前後までである。しかもその十余年間が貞心尼にとりては一生涯中での最意義あり、かつ最光輝ある時代であった。彼女が初めて良寛和尚に見えたのも、両者の間に世にも稀なる美しい交りの結ばれたのも、又彼女が良寛和尚の死に遭ったのも、実にその間のことだったからである。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 22~23

良寛に会うために木村家を訪問(文政十年春 四月十日頃 30歳)

[編集]

貞心尼は、良寛に会うために、文政十年四月十日前後に初めて木村家を訪れ、卯月十五日[75]附の手紙を木村家に出している。[76]

[77]かたにか御座なされ候やらん やがてまたあつき[78]時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば どふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候 わたくしもまづ当分柏崎へはかへらぬ[79]つもりにて さえわひ[80]此ほどふくじま[81]と申ところにあき[82]庵の有候まヽ 当分そこをかりるつもりにいたし あとの月より参りおり候 されどへんぴ[83]のところよへ便り遠に候まゝ もし御文下さるとも良い他のあぶらや喜左衛門様まで御出しくだされば 長岡まで日々便り有候まゝさやうなし被下度[84]候 何事もまた御めもじのふしゆるゆる申上べく まづは御礼までにあらあらめで度く かしく

  卯月十五日   貞心

のとや元右衛門様 御うち殿御もとへ

※著者堀桃坡[85]が述べているように、この書簡は文政十年四月のものと思われる。前半が欠けているようだが、「何かたにか御座なされ候やらん」とある人物は、良寛を指しているのではあるまいか。良寛は四月、すでに密蔵院へ入っていたわけだ。また貞心尼は、「あとの月より参りおり候」と記しているので、三月から長岡在福島の閻魔堂へ移ったようだ。それまでは柏崎在下宿(しもじゅく)で、尼僧同志の共同生活を続けていた。 — 谷川敏朗 、『良寛 伝記・年譜・文献目録』1980, p. 400
[86]「何かたにか御座なされ候やらん、やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば、どふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候。わたくしも、まづ当分柏崎へはかへらぬつもりにて、さえわひ此ほどふくじまと申ところにあき庵の有候まヽ、当分そこをかりるつもりにいたし、あとの月より参りおり候(下略)」 の、[87]能登屋元右エ衛門方[88]へ宛てた卯月[89]十五日附の書簡は前文欠というが、(堀桃坡前掲書[90])この書出しは良寛禅師の動静を伝えたものに相違なく、そうだとすれば、[91]島崎に移った翌年のこととなり、あとの月、即ち文政十年三月に[92]福島えんま[93]堂に移るや否や直に島崎に訪庵したのであろう。〔中略〕良寛は文政九年十月九日、島崎遷居を阿部定珍[94]に報じ、翌年夏(四月早々であろう)寺泊照明寺密蔵院に寓居[95]したことを再度定珍に通知している。したがって前記詞書の(1)[96]の出会い前の手まりの贈答歌は、林甕雄[97]本「良寛禅師歌集」の付箋に「この贈答の歌は貞心尼が良寛禅師をとひ[98]けるに、おはし[99]まさヾりけれバ、手まりにこれやこの歌をそへて[100]残しおきける。師後につきてみよの歌をかへし玉ふ[101]と遍澄師いふ」とあるように、密蔵院仮寓の不在中の出来事であった。 — 宮 栄二 、「貞心尼と良寛 : 関長温との離別説」『越佐研究』40, 1980
ところで、木村家へ宛てた貞心の手紙によると、四月十日前後に貞心は、木村家を訪問したらしい。良寛に会うためだった。しかし残念なことに、良寛はすでに密蔵院へ移っていたので、貞心はむなしく帰らざるを得なかった。その手紙の中で貞心は、「やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば、どふ(ママ)ぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候」と述べ、さらに「もし御文を下さるとも与板のあぶらや喜左衛門まで御出くだされば、長岡まで日々便り有候まゝ、さやうなし被下度候」と、良寛が帰庵したならば知らせてくれるように、それとなく依頼している。婉曲な態度の中にも、貞心の熱意が感じられる。 — 谷川敏朗 、「良寛と貞心尼のこころ」『良寛と貞心 その愛とこころ』1993, pp. 20~21

富沢信明 新潟大学名誉教授が、良寛と貞心尼の出会いを文政10年秋であることを裏付ける良寛直筆の書を2011年(平成23年)9月上旬に発見した。

貞心尼が良寛を最初に訪ねた時には、良寛は旧寺泊町(長岡市)にある照明寺の密蔵院に滞在していて会えず、その後初めて会えたのは26年[102]か27年頃で、場所は旧和島村(同)の木村家だったとされていた。良寛が密蔵院にいた時期が分かれば、貞心尼と初めて会ったのがいつかについて特定できるが、分からないままだった。   富沢さんが見つけたのは、「観音堂の脇(密蔵院)の庵(いおり)で‥‥‥」で始まる漢詩を含む良寛直筆の遺墨。〔中略〕漢詩のほかに、短歌が2首書かれており、紙の冒頭に「亥夏作」とあることから、亥年(いのししどし)の夏に詠まれたことが分かった。短歌は1825年(文政8年)~1829年(文政12年)頃の作品とされていたが、この間の亥年は27年(文政10年)しかないため、漢詩が詠まれたのは27年夏で、この時期には密蔵院にいたと特定した。さらに初対面の2人が詠みあった歌で、良寛が秋の夜の寒さについて詠んでいることから、2人が会ったのは秋だったとみられる。良寛は28年夏は木村家にいたことが別の史料でわかっているため、富沢さんは「貞心尼と良寛の初対面は27年秋だった」と結論づけた。 — —  、読売新聞朝刊 新潟南12版、2011年10月26日

歌と手まりを木村家に預ける(文政十年夏 閏六月十五日頃 30歳)

[編集]

〔「あつき時分」の晩夏に貞心尼は木村家に訪れた。閏六月十五日[103](満月)頃に貞心尼は歌と手毬を持って木村家を訪れたであろうが、またしても良寛に会えない。密蔵院にいた良寛は頻繁に木村家を訪れただろう。貞心尼の歌と手毬が置かれて日数があまり立たぬうちに良寛は返歌した。〕

これぞこの ほとけのみちにあそびつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ   貞心尼

出会い前の手まりの贈答歌は、林甕雄[97]本「良寛禅師歌集」の付箋に「この贈答の歌は貞心尼が良寛禅師をとひ[98]けるに、おはし[99]まさヾりけれバ、手まりにこれやこの歌をそへて[100]残しおきける。師後につきてみよの歌をかへし玉ふ[101]と遍澄師いふ」とあるように、密蔵院仮寓の不在中の出来事であった。 — 宮 栄二 、「貞心尼と良寛 : 関長温との離別説」『越佐研究』40, 1980, p. 54
「あつき時分は御かへり遊ばさるべくと存じ候へばどふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候」と述べているから、貞心尼は夏の盛りに良寛を木村家に訪ねたのだろう。その折手作りの毬を土産にしたらしい。しかし良寛は留守だったので、歌を木村家に託しておいたと思われる。秋、帰庵した良寛はその歌を見て、返歌を送った。それが「御かへし」の歌である。「つきて見よ」といっているから、貞心尼の訪問を促したと見てよい。 — 谷川敏朗 、『良寛 伝記・年譜・文献目録』1980, p. 403

〔文政十年は、立春 一月九日=1827年2月4日、立夏 四月十一日=5月6日、立秋 閏六月十六日=8月8日、立冬 九月十九日=11月8日となる。現代の定気法による計算。但し文政時代の実際の暦には数日の誤差があるといわれる。〕

良寛は、貞心尼に返歌の手紙を贈る(文政10年秋 閏六月二十四日)

[編集]
やがて立秋が過ぎ、良寛は島崎へ帰ってきた。そして貞心の贈り物と歌を見、関心を持ったのである。そこで良寛は、貞心へ手紙を贈った。

すぎしころは、てまりみうたをそへてたまはり、うやうやしくをさめまいらせ候

つきてみよひふみよいむなやこゝのとを とをとおさめてまたはじまるを

 みなづき廿四日

貞心上座[104]                      良寛

 この年は、六月に閏月があった。この手紙は、〔文政十年〕閏[105]六月二十四日付[106]のものである。陽暦では、八月十六日だった。そろそろ萩の花が咲こうとする時節である。歌の初めに「つきてみよ」とある。「毬[107]をついてみなさい」の意味のほか、「自分に就いて修行してみなさい」に意味もこめられていよう。暗に、良寛が貞心の弟子入りを認めた形になっている。また良寛は歌で、仏法が無限で量り知れないことを教えている。〔中略〕ただ、この書簡を手にして貞心が直ちに島崎へ赴いたとしても、それは早くても七月に入ってからであろう。良寛の書簡は塩入峠[108]を越えて与板の「あぶらや」に運ばれ、折よい船便によって長岡へ運ばれる。そして、長岡に止められる。貞心は托鉢のついでなどで立ち寄って受け取るのであるから、現在の運送事情とは、大いに異なったのである。 — 谷川敏朗 、「良寛と貞心のこころ」『良寛と貞心 その愛とこころ』1993, pp. 21~23

良寛と会う(文政10年秋 30歳)

[編集]

貞心尼が編纂した『蓮の露[109]』には、良寛と貞心尼が交わした和歌が五十数首、記されている。以下が文政十年秋に木村家別邸で交わした和歌である。(編集中)

良寛が「白たへのころもでさむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも」と詠っていることから、貞心尼が木村家で良寛に初めて会ったのは、秋となる。

はじめてあひ見奉りて              貞心尼

君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ

御かへし                    良寛

夢の世にかつまどろみてゆめを又かたるも夢もそれがまにまに

いとねもごろなる道のものがたりに夜もふけぬれば 良寛

白たへのころもでさむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも

されどなほあかぬこゝちして           貞心尼

向ひゐて千代も八千代も見てしがな空ゆく月のこと問はずとも

御かへし                    良寛

心さへかはらざりせばはふつたのたえずむかはむ千代も八千代も

いざかへりなんとて               貞心尼

立ちかへりまたもとひこむ玉ほこの道のしば草たどりたどりに

                        良寛

又もこよ山のいほりをいとはずば薄尾花のつゆをわけわけ

貞心尼の迷いに良寛からの手紙(文政11年11月=冬 31歳)

[編集]

〔貞心尼がまとめた「はちすの露」には、良寛との贈答歌が載っている。〕

  ほどへてみせうそこ給はりけるなかに

 君やわする道やかくる丶このごろはまてどくらせど音づれもなき 師   〔この歌は、良寛と貞心尼と出会った翌年、秋には必ず逢う約束をしていたにもかかわらず、姿を現さぬ貞心尼に良寛が宛てた書簡の中にあるもの。『良寛の書簡集』(谷川俊朗編 恒文社)p. 297 によれば、次のように良寛の歌が、当初に歌われた順のままに、手紙に残っていることがわかる。この歌が詠まれた状況を知るには、谷川氏の解説が不可欠である。長くなるが同著から引用する。〕

かへし

 ひさかたの月のひかりのきよければ

  てらしぬきかり からもやまとも

  むかしもいまも うそもまことも

  やみもひかりも

 はれやらぬ みねのうすぐもたちさりて のちのひかりとおもはずやきみ

  ふゆのはじめのころ

 きみやわするみちやかくる丶このごろハ  まてどくらせどをとづれのなき

  良 寛   霜月四日   ○この書簡にも宛名がない。しかし、歌はいずれも『はちすの露』にあるから、貞心尼宛の書簡である。この書簡の初めにある「かへし」とは、次の貞心尼の歌に対してである。

やまのはのつきはさやかにてらせども まだはれやらぬみねのうすぐも   〔貞心尼〕

 貞心尼は、仏法に対する悟りがまだ得られないことを、良寛に訴えたのである。それに対して良寛は、月の光のような清く尊い仏のみ心は、唐(から)の国も日本も、昔も今も、うそも真実も、闇の世界も明るい世界も、みな同じように照らして理解するようにしておられる。だから、あなたもやがて仏のみ心を理解できるであろうと、歌で教えたのであった。  この歌は、変わった形式である。従来の歌集にはないようだ。その形式の中に良寛は、空間の世界、時間の世界、内面の世界、外面理念の世界を対にして、月輪のごとき丸く円満な仏法は、宇宙の実相をわけへだてなく、あまなく照らしている、と教えたのである。 さらに良寛は、あなたの心の迷いはやがて消え去り、月の光のような仏法の光が、あらゆる隅々まで、きっと照らし出すだろうよ、そのように、あなたは仏法を悟ることができるはずだ、と歌で示した。これらの歌に接した貞心尼は、仏法を理解でき、その喜びを歌にして良寛へ送った。

我も人もうそもまことも隔てなく 照らしぬきけり月のさやけさ
覚めぬれば闇も光もなかりけり 夢路を照らす有明の月 〔貞心尼〕

 良寛も、すぐに祝福の歌を返した。

天が下に満つる玉よりこがねより 春の初めの君がおとづれ 〔良寛〕

 なお、書簡の最後の歌について、『はちすの露』の中で貞心尼は、「ほどへてきせうこそ給はりけるなかに」と詞書をつけ、返歌を記している。

  御かへし奉るとて           〔貞心尼〕

ことしげきむぐらのいほにとぢられて
  みをばこ丶ろにまかせざりけり
 良寛は、貞心尼が訪問の約束を違えて、なかなか来てくれない不満を、それとなく述べたのである。それに対して貞心尼が、訪問できなかった言いわけを歌で示したのであった。 なお、『はちすの露』の、この部分の頭注に、「こは人の庵に」有りし時なり」と、貞心尼は書き記している。このころ貞心尼は、柏崎の二人の尼僧のもとで、庵室に籠(こも)って修行にいそしんでいたのである。すると、この書状は文政十一年(一八二八)十一月四日のものかもしれない。 — 谷川俊朗編 、『良寛の書簡集』1988, pp. 297~300

良寛寂滅(天保2年1月6日)

[編集]
貞心は良寛の急を聞くと、年の暮れの庵主の勤めを投げ出して、島崎へかけつけました。このときの良寛の様子を、貞心は--さのみなやましきご気色にあらず、床の上に座しゐたまへるが--とのべています。良寛は最後の気力をふりしぼって、床の上にきちんと坐って貞心をむかえたのです。

 貞心の手をとると、もうほとんど言葉にはならず、その手の甲に涙をこぼしながら、ようやくこう詠みました。

いついつと待ちにし人はきたりけり いまはあひ見てなにかおもはむ  〔良寛〕

貞心は良寛の耳許に口をよせて、別れの歌を告げました。

生き死にのさかひはなれてすむ身にも さらぬわかれのあるぞかなしき

しかしこの時はもう、〔良寛は〕歌をかえす力もなくほとんど聞きとれないほどの、覚束ない声で、つぶやくように

うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
とだけ告げたそうです。…それから数日の後、最愛の貞心にみとられながら、良寛は静かに七十四年の生涯を閉じました。天保二年の正月六日の、雪ふりしきる夕方のことでした。 — 子田重次[110] 、「『はちすの露』断章」『良寛と貞心 その愛とこころ』1993, pp. 57~59
貞心にとっては、永遠に良寛と語り続けたかったのである。この情熱を良寛はしっかり受けとめ、貞心が悟りに至るまで、仏道を中心に説いて聞かせたのであった。  しかし、こうした濁りのない心の交流も、長くは続かなかった。貞心の懇篤な看病も空しく、良寛は直腸癌のために、天保二年(一八三一)正月六日死亡した。死期が迫った時、貞心は連歌形式の句を詠んだ。
来るに似てかへるに似たり沖つ波

沖の波のように、人間は死にまた新しい命が生まれ代わって、人類の命は永遠である。あなたのお心は私の中にしっかりと生きつづけるはずだと、いうのであろう。 すると良寛は、苦しい息をつきながら、

あきらかりけり君が言の葉

と応じた。あなたの言葉はありがたく、すばらしい。その通りだという意味であろう。この良寛との連歌は、貞心にとって肉体以上に強い心の合一であった。単なる贈答の歌ではない。合一の歌であった。 また、良寛の死が近いのを知った貞心は、悲しみのあまり、

生き死にの境離れて住む身にもさらぬ別れのあるぞ悲しき

と詠んだ。貞心は、仏に仕える身でありながら、避けられない死によって別れなければのは、まことに悲しいという、それに対して良寛は、次の発句を示した。

裏を見せ表を見せて散る紅葉(もみじ)

この句について貞心は、「はちすの露」で、

「こは御みづからのにはあらねど、時にとりあひのたまふ いといとたふとし」と述べている。貞心にとって、この句が特に尊く感じられたのは、なぜだったのだろう。良寛は発句の中に、自分はやがて息を引き取るが、あなたには私の心のすべてを示してみせたから、今は思いのこすことはない、という意味を含ませたものであろう。  — 谷川敏朗 、「良寛と貞心のこころ」『良寛と貞心 その愛とこころ』1993, pp. 24~26

良寛肖像(天保5年 37歳)

[編集]

天保某年(5年頃といわれる)に小出(現:魚沼市本町付近)を訪れた貞心尼は、画人・松原雪堂(本名は松原俊蔵=住居跡は現在の魚沼市本町1丁目 タケヤ時計店、昭和期の区画整理前においては「かねき」衣料品店の場所。出典 魚沼良寛会 貞心尼紹介パンフレット)を訪ね、良寛肖像画を描いてもらいたいと依頼。その画の礼に良寛からの手紙「 先日は眼病のりやうじがてらに與板[111]へ参候 そのうへ足たゆく腸[112]いたみ御草庵もとむらはずなり候 寺泊の方へ行かんおもひ地蔵堂中村氏に宿り いまにふせり まだ寺泊へもゆかず候 ちぎりにたがひ候事大目に御らふじたまはるべく候  秋はぎの花のさかりもすぎにけりちぎりしこともまだとけなくに   八月十八日    良寛 」を渡した。[113]

〔雪堂による良寛肖像画が完成したときの歌が次のものと思われる。〕

良寛禅師肖像賛 うきぐものすがたはこゝにとゞむれど心はもとの空にすむらむ  — 相馬御風 、「貞心尼歌抄」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 251

『蓮の露(はちすのつゆ)』(~天保6年5月 ~38歳)

[編集]
貞心尼自筆の歌集。体裁は、縦24センチ、横16.5センチで和紙を袋とじにした冊子本である。表紙と裏表紙を除いて50丁・100ページからなっている。内容は良寛の略伝、良寛歌集、良寛・貞心唱和の歌と続き、このあとに不求庵(ふぐあん)のこと、山田静里(やまだせいり)翁のこと、良寛禅師戒語、蓮の露の命名のことなどが、全て貞心尼の筆によって書かれている。天保6年5月に完成。良寛没後4年目に当たる。中村藤八翁が鬼集した「中村文庫」中にあり、1975年(昭和50年)に市の指定文化財となる。※ 閲覧には数種類出版されている複製本が利用されている。また、ビデオ2本で視聴できる。 — — 、柏崎市立図書館ソフィアセンター発行の史跡パンフレット

柏崎・釈迦堂の庵主(天保12年3月~嘉永4年4月 44~54歳)

[編集]
そのうち彼女の最初の受業[114]師であつた心龍尼の妹である眠龍尼が天保九年四月十五日に示寂し、続いて天保十一年六月廿八[115]日彼女の師心龍尼も圓寂した。そして天保十二年三月彼女は正式に柏崎洞雲寺[116]泰禅[117]和尚について得度の式を了し血脈を相続して、改めて師の跡を継いで柏崎釈迦堂の庵主となった。それは彼女の四十四歳の時であった。それ以後に於ける貞心尼の生活は貧しいうちにも極めて平和であった。良寛和尚と同じように彼女もまた多くの人々から愛敬され、彼女の庵は一面それらの人々にとりての道場であると共に、他面常に春風に恵まれた楽しい遊び場所となっていた。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 40

不求庵時代(嘉永4年9月~明治5年 54~75歳)

[編集]
そして嘉永四年彼女の不在中火災に遭って釈迦堂の焼失[118]した後に於ても、彼女[58]は彼女の歌の友でありかつ道の友であった山田静里を初め多くの人々の寄進によって真光寺[119]と称する寺の側に新しい草庵を結んで貰い、そこに安らかな生活を続けることが出来た。その草庵は施主山田静里によって不求庵[120]と名づけられた。それは八畳と四畳と三畳との三間しかない狭い庵であった。彼女はそこに二人の弟子と共に住んでいた。しかし、それでさえも彼女には勿体[121]ないほど広く感じられた。なおその庵を不求庵と命名したについて施主山田静里はこんなように書いている。その文章は当時貞心尼その人が世間からどんな風に見られていたかの証左ともなると思うから、ここにその全文を掲げて置くことにする。

 「よろづのものおのれに求めむより、求めずしておのづから得るこそ、まことの得るとはいふべけれ。されば佛説にも聖經にもさるすぢにをしへありとぞ  此庵のあるじ貞心尼のぬしは、年頃佛の道のおこなひは更なり、月花のみやびより外にいささか世に求むることなく、よろず[11]むなし心に物したまふ。月日を和歌の浦波に心をよせて、あま衣たちなれぬる人々はかねてよりよく知り侍りぬ。しかるにことしの永月の末つかたまがつ火の災ひにてもと住まひたまひしあたりも一つらのやけ野となりぬれば、かの心しれる人々諸ともにことはからひつゝ、あらたにさゝやかなる草の庵を結びて、あるじをうつしすゑまゐらすことゝはなりぬ。これや、さは求めずしておのづからに得るとも云ふべけれとて、不求庵とは名づけ侍るになむ。  もとめなき心ひとつはかりそめの草の庵も住みよかるらむ  こは嘉永四年亥の長月[122]半ばのことにぞありける。かくいふは方寸居のあるじの翁静里」

 こうした里人達のあたたかな愛敬のうちに、貞心尼は二人の弟子達と共に清く安らかな晩年を送ることを得たのであった。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 40~42

『良寛道人遺稿』出版に尽力(慶応元年?~慶応3年3月 68?~70歳)

[編集]

加藤僖一は、こう述べている。

『良寛道人遺稿』は、慶応3年、わが国で最初に刊行された良寛の詩集である。しかも唯一の木版本であり、資料としても書物としても、非常に貴重性が高い。編者の蔵雲和尚は、上州前橋・竜海院の第29世の住職。明治2年没。本書の巻頭に掲げられた良寛の肖像も、良寛の弟子、貞心尼や遍澄の下絵を参考にして、蔵雲和尚が書いたものである。(相馬御風著『良寛百考』、渡辺秀英校註『大愚良寛』による)」、「蔵雲和尚は弘化4年、越後へ巡錫[123]してき、その後一時、柏崎在吉井の善法寺にすんでいたことがある。良寛和尚の遺稿を見て感銘をうけ、五合庵を訪ねたり、貞心尼とも会い、良寛詩集を思い立ったようである。」、「良寛の肖像が、口絵一頁に描かれている。この肖像は前にもふれたように、貞心尼が原画を書き、蔵雲和尚が仕上げたといわれている。まだ写真などなかった時代であるから、この絵が、最もよく良寛の風貌をとらえた貴重な資料といえよう。右肩には「良寛道人肖像」と篆書で書かれている。この肖像のウラは白で、次に「良寛道人略伝」が、四頁にわたって掲載されている。文はやはり蔵雲和尚。書は碧山星嶂という人の手になる隷書体。なかなか装飾性に富むきれいな隷書である。良寛略伝を手際よくまとめ、かつ、貞心尼から、しばしば助言をうけたことを書きとどめている。 — 加藤僖一 、『良寛道人遺稿 全』1982, pp. 140~142[124]

加藤僖一は、『良寛道人遺稿 全』の解説に、こう述べている。

大島花束[125]氏の『良寛全集』には、貞心尼が蔵雲和尚宛に出した手紙が収録されている。その一部に「詩集一冊、序文二通り、是は島崎へん澄と申す法師、年頃禅師と親しく致しし人にて、此度開版[126]の事につき、わざわざ私方へ持参致され候まま、差上げ御目にかけ参らせ候。時は同じことに候へど、所々文じのあやまりあるを、学者の改め直したりとの事に候。序文も俗人の作にてさのみ取るべき所もなきやうに候へど、御慰の為め、御覧に入れ参らせ候。便の御かへし被下度[84]候。」とあり、右の詩集のほかに、遍澄が書き集めた詩集をも参考にしていることがわかる。またここにふれられている序文は、鈴木文台[127]あたりの手になるものをさすと思われるが、俗人の作とばかり、手きびしいきめつけ方をしている。 — 加藤僖一 、『良寛道人遺稿 全』1982, p. 141

相馬御風は、こう擁護している。

貞心尼が良寛和尚の詩集の開板者である上州前橋龍海院の蔵雲和尚に宛てた手紙の中に、学者某が良寛和尚の詩を集めたのはいいが、それに文字の誤りがあるといって所々改め直したのはけしからぬ、又序文の如きも俗人又は真に良寛その人を解しない者の書いたのは無きに劣るというような事をいっている。そうした点では、貞心尼もなかなか一家の見識を高持していたらしい。世間並の尼さんでなかったことは、こんな事からだけでも想像出来る。 — 相馬御風 、「貞心尼雜考」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 54
慶応三年貞心尼七〇歳の三月、上州前橋の竜海院主蔵雲[128]和尚が、良寛の詩一八二首、法華讃五二首を収めた『良寛道人遺稿』(良寛漢詩集の最初の刊行)を江戸で出版したが、書中良寛道人略伝に、「又屡(しばしば)其の参徒貞心尼なる者に就いて、師の履践(りせん)風彩を詳(つまびらか)にす」(原詩漢文)と断っている通り、良寛の閲歴、とくに巻頭画像については貞心尼によるところが大きかった。画像は世に残された良寛像のうちもっとも真に迫るといわれ、原画は貞心尼の手によるものとされているが、かつて雪堂によって描かれた師像への記憶によるところが大きいものとされている。  — 小出町教育委員会 、『小出町史 上巻』1996, pp. 1014-1015

貞心尼寂滅(明治5年2月 75歳)

[編集]

 貞心尼は小出の西井口を慶応三年、70歳のときに訪れて、下記の歌を残していった。現在は不明であるが、西井口家に残る貞心尼筆の短冊(たんざく)を控えた記録が、松原啓作の研究録に残っている。[129]

「小切に歌をかきたるもの同家蔵

不二 みるたひにめづらしきかなくもきりの たち居にかほるふしのすかたは 七十歳 貞心 」

明治五壬申二月十一日[130]、孝室貞心尼寂滅。 「辞世の歌は 来るに似てかへるに似たり沖つ波 たちゐは風の吹くに任せて であった。墓は洞雲寺裏山の墓地にある。」[131]

良寛に愛された貞心尼

[編集]

相馬御風は、次のように述べている。

古来男女の間に唱和された歌で広く世に知られているものは、無論少なくない。しかし、今日までに私自ら読んだものでは、万葉集中の少数を除く外は、その表現の切実味を以って胸をうつような作には、あまり多く接することが出来なかった。ところが、十数年前はじめて良寛和尚の歌を読み、その中に彼と彼の最愛の弟子貞心尼との間に唱和された五十余首のあったのに接して、私はかくも淳真[132]な、かくも切実な、かくも無礙[133]な、かくも温かな、そしてかくも清らかな男女間の愛の表現があり得るものかと驚嘆措[134]く能[135]はなかったのである。 そもそも此の良寛貞心唱和の歌は、良寛没後貞心尼が苦心蒐集した良寛歌集「蓮の露[136]」の終わりに添えてあるものであって、これほど数多く男女唱和の歌が一まとめにしてあるという点でも、古来あまり多くその類を見ないところであろう。それには尼貞心が僧良寛と初めて相[137][138]ってから、最後に良寛の死によって永遠の別れを告げたまでの間に、両者の間に詠みかわされた歌の大部分がしるされている。そしてその歌集の序文の終わりに貞心尼自ら「こは師のおほんかたみと傍[139]におき朝夕にとり見つつ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ。」と云[140]っているように、もともとそれは彼女みずからの追憶の料としてしるし集めたものであった。そこに此の集に対して一段のゆかしさを私達に覚えさせるものがある。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 3
何という純真な愛の表現であろう。「いざさらばわれはかへらむ……」の如[141]き、「歌やよまむ手毬[142]やつかむ………」の如き、或いは「梓弓[143]春になりなば……」の如き、さては「いついつと待ちにし人は………」の如き、よむ度毎に私達はその情緒のみづみづしさと、温かさと、清さ[144]とに感動させられずにはいられぬのである。而も[145]それが七十歳の老僧と、三十歳の美しい尼との間にとりかわされた愛の表現であることを思う時、私達はそこになみなみならぬ清い愛の世界の展開を想わずにいられぬのである。

[146]て私は此の二人の関係について書いた折にも云ったように、この七十歳の老法師と三十を越えたばかりの此の尼僧との関係は、一面に於ては正に仏門に於[134]ける師弟の交りであつた。又同時にそれは歌の道、芸術の世界、美の天地に於ける師弟でもあり、又道づれでもあった。而も現身[147]の人間としての両者の関係は、或時[148]は親子のそれであり、或時は兄妹のそれであり、或時は最も親しき心友のそれであり、更に或時は最も清い意味での恋人のそれでさえもあったろう。清くして温く、人間的にして而も煩悩の執着なく、霊的にして而も血の通った、美しく尊く、いみじき愛ーまったく私はいつも此の良寛と貞心との交りをおもう毎に、何ともいえない心のうるおひに充たされるのである。

齋藤茂吉氏も嘗てその著「短歌私鈔」の中で此二人の交りについてこんなことを云っていた。「良寛と貞心との因縁は極めて自然である。この事を思う毎に予はいい気持になる。良寛は貞心に会ってますます優秀なる歌を作った。その歌は寒く乾き切ったものでなく、恋人に対するような温い血の流れているものである。人間は生の身であるから、いくら天然を愛したとて、天然は遠慮なく人間に迫って来る。そこにいて心細くないなどというのは虚[149]である。良寛は老境に達してから淨[150]い女の貞心から看護を受けた。本当の意味の看護である。良寛にとっては、こよなき Gerokomik の一つであったろう。世に尊き因縁である。」 この齋藤氏の見方には、私達も真に同意することが出来る。いかにもそれは世にも稀な尊い因縁であったのである。良寛和尚の美しい生涯を考える上に、私はどうしても此の最晩年に於ける和尚と貞心尼との交りをおろそかにすることは出来ないと同時に、良寛和尚の生活に対すると同じく貞心尼その人の生活に対してもやみがたい興味をおぼえるのである。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 16~18

美貌

[編集]

貞心尼が美貌であったことは、彼女が後半生を住み暮した柏崎で広く語り伝えられていたので確かである[151]。相馬御風は、貞心尼の美貌を、貞心尼の遺弟で柏崎釈迦堂の庵主として生きながらえていた七十七歳の高野智讓老尼から確かめている。智讓尼は、七歳から二十歳までの14年間、貞心尼と起居をともにしていた。

智讓尼は云った。「わしらが庵主さんほど器量のえい尼さんは、わしは此の年になるまで見たことがありませんのう。」こう云ってから老尼は更に心にその面影を想い浮かべでもするように静に眼をとじながら、「何でもそれは目の凛[152]とした、中肉中背の、色の白い、品のえい方でした。わしの初めておそばに来たのは庵主さんの六十二の年の五月十四日のことでしたが、そんなお年頃でさえあんなに美しくお見えなさったのだもの、お若い時分はどんなにお綺麗だったやら…」というようなことも話した。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 18~19

しかし、声は悪かったらしい。

貞心尼は容貌に於ては人並すぐれた美しい女性であったが、声があまりよくなかった。お経を読む時など、そのきいきい声がひどく聞きにくかった。それで晩年には自分でもそれがいやであったらしく、多くの場合須磨琴[153]と称する一絃の琴を弾いて、それに合せてお経を読んでいた。琴に合せてお経を読むなどは普通の尼さんなどには到底出来ない芸当であると遺弟智讓尼も笑いながら話した。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 45~46

位階

[編集]

釈迦堂の仏壇の黒い大きな位牌には、金文字で「孝室貞心尼首座[154]」「乾堂孝順尼」、裏面には「明治廿八年乙未五月十七日」[155]、「明治五壬申二月十一日」[156]と書かれてあったことから、貞心尼は首座の位階であったと思われる。[157]

この位牌は、釈迦堂がなくなったときに薬師堂に移された。その後、与板に行き、不明となっている。薬師堂によれば、宗務所には、貞心尼が首座であった記録が残っているという。

同名の尼僧

[編集]

新潟県内だけでも、貞心尼という法名を持つ尼僧が複数いる。特に「浜の庵主さま伝承」が提起された魚沼に関して、貞心尼の法名を持つ尼は複数人いる。[158]

脚注

[編集]

貞心尼に関しては、1980年(昭和55年)以降、様々な憶測と誤解が生まれ、その真実の姿が歪曲されてきた。出典と原文を提示することで、利用者の真実探究が容易になるよう努めた。

引用文中および脚注中の〔 〕、〈 〉は編集投稿者による付記または補足。引用文中にある( )は引用文にもともとあったもの、またはルビ。極力、正確な引用となるよう努めた。

相馬御風著の引用文については、原文は旧漢字を用いているが現在の漢字に改め、旧仮名遣いも現代文に改めている。

  1. ^ 〔蓮の露〕
  2. ^ 〔奥村家5代目五兵衛。代々、奥村五兵衛を襲名=上杉艸庵「貞心雑考」昭和3年 による〕
  3. ^ 〔現:魚沼市本町1丁目北側付近〕
  4. ^ 〔せつどう。本名は松原俊蔵。現在の「タケヤ時計店」が屋敷跡(位置は魚沼良寛会パンフレットによる)〕
  5. ^ 〔披見=ひけん。手紙や文書を開いて見ること〕
  6. ^ 〔柏崎市図書館蔵 51頁 1967年(昭和42年) 長岡童話研究会〕
  7. ^ 〔じょうじゅうぶつ〕
  8. ^ 〔菩提寺〕
  9. ^ 〔鉄砲蔵とは城内で鉄砲・火薬・火縄を貯蔵するところ〕
  10. ^ 〔日拝帳〕
  11. ^ a b 〔原文のまま〕
  12. ^ 〔そうあん。本名は涓潤:けんじゅん〕
  13. ^ 〔会津藩ほか多くの藩には「鉄砲台師」が武具奉行のもとに設けられているのでこの記述が正しい可能性が高い。鉄砲作りは、銃身を「鍛冶師」、銃床を「台師」、引き金・カラクリを「金具師」の3師の分業制でおこなわれた。〕
  14. ^ 1923年(大正12年)7月11日に長興寺の過去帳を上杉が記録〕
  15. ^ 〔のちの貞心尼〕
  16. ^ 〔数え、以下生まれた年を1歳として年齢を記す〕
  17. ^ 〔法名に1字の違いあるが、奥村家過去帳は長興寺の過去帳を元に作られたとの奥村家子孫証言から、「月光貞圓大姉」が正しいと思われる〕
  18. ^ 〔おおい〕
  19. ^ 〔ここ〕
  20. ^ 〔読書〕
  21. ^ 〔しょうじつ=たいしたこともせず、その日を過ごすこと〕
  22. ^ 〔どくご=独り言をいうこと〕
  23. ^ 〔ちじょうに。貞心尼の弟子〕
  24. ^ 〔がくもん=学問。中世から近世にかけて学文といった。大辞泉〕
  25. ^ 〔灰書き〕
  26. ^ 〔ごぜんかた〕
  27. ^ 〔さずき=仮の棚〕
  28. ^ 〔これなし=漢文〕
  29. ^ a b 〔中村文庫の筆字の原本で確認〕
  30. ^ 〔思案にふけりながら、頭を垂れてゆっくりと行きつもどりつすること。転じて、いろいろと考えめぐらすこと。=日本国語大辞典〕
  31. ^ 〔可愛〕
  32. ^ a b 〔中浜〕
  33. ^ 〔めいび〕
  34. ^ 〔とにかく〕
  35. ^ 〔とんせい〕
  36. ^ 〔ま〕
  37. ^ 〔よ〕
  38. ^ 〔ごてんぼうこう=御殿女中として大名家の奥向きなどに奉公すること〕
  39. ^ 「小出と貞心尼」『小出郷新聞』1958年9月15日
  40. ^ 〔せき ちょうおん=読みが不明の場合は、音読みすることになっている。「ながたみ」「ながあつ」「ながはる」かもしれない〕
  41. ^ 〔現:魚沼市竜光=りゅうこう〕
  42. ^ 〔同家過去帳=日拝帳から推定〕
  43. ^ 〔どうじゅん。「みちなり」か?〕
  44. ^ 〔現:魚沼市竜光〕
  45. ^ 〔なにがし〕
  46. ^ 〔あざ〕
  47. ^ 〔20〕
  48. ^ 〔しゅつ〕
  49. ^ 〔しし=跡継ぎ〕
  50. ^ 〔ついで〕
  51. ^ 〔のみ=漢文〕
  52. ^ 〔読〕
  53. ^ 〔そのきんぼうのひと〕
  54. ^ 〔てつじょう〕
  55. ^ 〔関長温の内儀〕
  56. ^ 〔にしいのくち〕
  57. ^ 〔小出島村。現在の魚沼市本町1丁目付近〕
  58. ^ a b c 〔貞心尼〕
  59. ^ 〔やはり〕
  60. ^ 〔閻王寺:えんのうじ。尼寺〕
  61. ^ 〔みんりゅう〕
  62. ^ 〔しんりゅう〕
  63. ^ 〔ちなみ〕
  64. ^ 〔「新出」の誤植〕
  65. ^ 〔たきぎ〕
  66. ^ 〔あだな=根拠のない悪い噂〕
  67. ^ 〔じゅぎょう=弟子が師から学問や技術を学ぶこと〕
  68. ^ a b 〔ふくじま〕
  69. ^ 〔もら〕
  70. ^ 〔下記、宮栄二の論により、文政十年三月、30歳からとなる〕
  71. ^ 〔眠龍尼、心龍尼〕
  72. ^ 〔もと〕
  73. ^ 〔こし〕
  74. ^ 〔現:長岡市福島〕
  75. ^ 〔1827年5月10日〕
  76. ^ 〔良寛と貞心尼の出会いを文政9年とする説もあるが、これを文政10年とする根拠および貞心尼が福島の閻魔堂へ移り住んだ時期を文政十年三月とする根拠は以下の谷川敏朗と宮 栄二の論による。〕
  77. ^ 〔いざ〕
  78. ^ 〔暑き〕
  79. ^ 〔帰らぬ〕
  80. ^ 〔幸い〕
  81. ^ 〔福嶋〕
  82. ^ 〔空き〕
  83. ^ 〔辺ぴ〕
  84. ^ a b 〔くだされたく〕
  85. ^ 堀桃坡『良寛と貞心尼の遺稿』日本文芸社、1962年(昭和37年)。柏崎市図書館蔵。
  86. ^ 〔貞心尼が木村家に宛てた手紙に〕
  87. ^ 〔貞心尼が〕
  88. ^ 〔木村家〕
  89. ^ 〔旧暦四月〕
  90. ^ 〔堀桃坡『良寛と貞心尼の遺稿』を指す〕
  91. ^ 〔良寛が〕
  92. ^ 〔貞心尼は〕
  93. ^ 〔閻魔〕
  94. ^ 〔さだよし〕
  95. ^ 〔ぐうきょ=一時的に身を寄せること〕
  96. ^ 〔次項に掲載〕
  97. ^ a b 〔みかお〕
  98. ^ a b 〔訪い〕
  99. ^ a b 〔御在し〕
  100. ^ a b 〔添えて〕
  101. ^ a b 〔返し給う〕
  102. ^ 〔1826年〕
  103. ^ 〔1827年8月7日〕
  104. ^ 〔じょうざ〕
  105. ^ 〔うるう〕
  106. ^ 〔1827年8月16日〕
  107. ^ 〔まり〕
  108. ^ 〔しおいりとうげ〕
  109. ^ 〔はちすの露〕
  110. ^ 〔こだしげじ〕
  111. ^ 〔与板〕
  112. ^ 〔はら〕
  113. ^ 小出町教育委員会『小出町史』上巻 「貞心尼と小出のゆかり」の項, 1996, p. 1014
  114. ^ 〔じゅごう〕
  115. ^ 〔二八〕
  116. ^ 〔とううんじ〕
  117. ^ 〔たいぜん〕
  118. ^ 〔嘉永四年四月二一日の柏崎大火による〕
  119. ^ 〔柏崎〕
  120. ^ 〔ふぐあん〕
  121. ^ 〔もったい〕
  122. ^ 〔旧暦九月の異称〕
  123. ^ 〔じゅんしゃく〕
  124. ^ 尚古堂、慶応3年3月23日、良寛の収録詩数は234。
  125. ^ 〔おおしまかそく〕
  126. ^ 〔かいばん〕
  127. ^ 〔ぶんたい〕
  128. ^ 〔ぞううん〕
  129. ^ 〔この不二とは、同家から見える藤権現に雲霧がかかる姿を歌ったものと思われる。なお、「小出町史」および「小出郷新聞」には「たち居にかはる」と記されているが、研究録の方が正しいと松原啓作は昭和60年頃に語っている。小出の藤権現に雲霧がかかって、美しく見えるのは新暦5月頃である。したがって、上記、『良寛道人遺稿』の出版を目にしてから、小出を訪れたのであろう。そのときには亡くなっていた松原雪堂の家に報告したものと思われる。〕
  130. ^ 〔1872年3月19日〕
  131. ^ 加藤僖一『良寛』2008、pp. 85~86
  132. ^ 〔純真〕
  133. ^ 〔むげ〕
  134. ^ a b 〔お〕
  135. ^ 〔「他」の誤植?〕
  136. ^ 〔はちすのつゆ〕
  137. ^ 〔あい〕
  138. ^ 〔し〕
  139. ^ 〔かたわら〕
  140. ^ 〔い〕
  141. ^ 〔ごと〕
  142. ^ 〔てまり〕
  143. ^ 〔あずさゆみ〕
  144. ^ 〔清らかさ〕
  145. ^ 〔しかも〕
  146. ^ 〔かつ〕
  147. ^ 〔うつしみ〕
  148. ^ 〔あるとき〕
  149. ^ 〔うそ〕
  150. ^ 〔きよ〕
  151. ^ 相馬御風「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, pp. 18~19
  152. ^ 〔りん〕
  153. ^ 〔すまごと〕
  154. ^ 〔しゅそ〕
  155. ^ 〔乾堂孝順尼の寂滅の日〕
  156. ^ 〔孝室貞心尼の寂滅の日〕
  157. ^ 1950年(昭和25年)3月12日頃に柏崎6丁目 釈迦堂を訪れた松原啓作による(「貞心尼 春の釈迦堂に貞心を聴く」『小出郷新聞』1950年4月20日)。
  158. ^ 〔このために、多くの憶測、誤解を生むことになったと思われる。〕

参考文献

[編集]
  • 上杉艸庵「貞心雑考」1928年(昭和3年)= 中村昭三編「貞心尼考」全国良寛会柏崎総会記念誌 1995年(平成7年)。
  • 加藤僖一『良寛道人遺稿 全』良寛の書研究会、1982年(昭和57年)9月。
  • 加藤僖一『良寛』新潟県人物小伝、新潟日報事業社、2008。
  • 小出町教育委員会『小出町史』上巻、1996。
  • 子田重次「『はちすの露』断章」『良寛と貞心 その愛とこころ』考古堂、1993。
  • 相馬御風『貞心と千代と蓮月』春秋社、1930年(昭和5年)2月20日。
  • 谷川敏朗『良寛 伝記・年譜・文献目録』良寛全集 別巻1、良寛全集刊行会、1980年(昭和55年)。
  • 谷川俊朗編『良寛の書簡集』恒文社、1988。
  • 谷川敏朗「良寛と貞心尼のこころ」『良寛と貞心 その愛とこころ』考古堂、1993年(平成5年)10月1日。
  • 俵谷由助『良寛の愛弟子 貞心尼と福島の歌碑』長岡童話研究会、1967年(昭和42年)。柏崎市図書館所蔵。
  • 中村藤八『浄業餘事』〔智譲尼からの聞書き〕中村文庫、柏崎市図書館。
  • 松原啓作「小出と貞心尼」『小出郷新聞』1958年(昭和33年)8月1日・15日・9月1日・15日・10月1日・15日・11月1日。
  • 松原啓作「貞心尼 春の釈迦堂に貞心を聴く」『小出郷新聞』1950年(昭和25年)3月20日。
  • 松原啓作「遺墨と史跡 史跡の柏崎を探ねる」『小出郷新聞』1959年(昭和34年)4月23日。
  • 宮 栄二「貞心尼と良寛 : 関長温との離別説」『越佐研究』第40集、1980(昭和55年)、p. 54。長岡市立図書館蔵。
  • 山本哲成「新資料により覆される「浜の庵主さま伝承」良寛・貞心尼と魚沼市」『魚沼の貞心尼と良寛さま「浜の庵主さま伝承」の再検討』魚沼良寛会、2007年(平成19年)6月9日。魚沼市小出図書館蔵。
  • —、読売新聞(朝刊)、新潟南12版、2011年(平成23年)10月26日。

外部リンク

[編集]