豊橋海軍航空隊
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豊橋海軍航空隊(とよはしかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊の一つ。陸上攻撃機要員の練成部隊として開かれたが、急遽実施部隊に変更され、太平洋戦争終盤に最前線で爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。1944年(昭和19年)2月20日に、第七〇一海軍航空隊(だい701かいぐんこうくうたい)(二代目)に改称されている。なお、初代豊橋空が実施部隊に変貌したのちに、再び豊橋に練成部隊として二代豊橋空が設置されている。
沿革(初代)
[編集]陸上攻撃機部隊の増強を図るために、④計画に盛り込まれた4個航空隊の一つとして、補充要員の練成部隊として開隊した。横須賀鎮守府と呉鎮守府の中間点にある東海地方に計画され、気象・地形・補給の面で優れた豊橋沖の海を埋立て、5年かけて正八角形の人工島を造成し、そこに飛行場を建設した。海上空港として名高い長崎空港や関西国際空港の先を行く海上飛行場である。
- 昭和18年(1943年)
- 昭和19年(1944年)
- 昭和20年(1945年)
主力機種
[編集]歴代司令
[編集]沿革(二代)
[編集]初代豊橋空が七〇一空に改称して千歳に進出したが、豊橋飛行場は滑走路5本を擁する広大な施設だったため、最前線で疲弊した陸攻部隊の再編に絶好の施設として存分に活用された。絶対国防圏設定後、陸攻要員の練成部隊をさらに増強すべく、豊橋に二代目の練成部隊を開いた。
- 昭和19年(1944年)
- 7月10日 開隊。第11練習連合航空隊所属(陸攻93機配備)33機ずつに分離
- 昭和20年(1945年)
主力機種
[編集]歴代司令
[編集]- 佐藤六郎(昭和19年7月10日 - )
- 永石正孝(昭和19年10月10日 - )
- 佐藤治三郎(昭和20年2月20日 - 終戦後武装解除)
戦後の飛行場
[編集]人工島であったことが災いし、終戦直後に入植した製塩工場が廃業してから10年ほど放置されていた。昭和30年代から拡張埋立て工事が実施され、人工島は原形を失ったものの、工業用地として造成した後は大半が誘致に成功。一部は用地のまま放置されている。 昭和40年代半ばにはラジコン飛行機の滑走路として使用されていた。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版 2003年)
- 『航空隊戦史』(新人物往来社 2001年)
- 『日本海軍航空史2』(時事通信社 1969年)
- 『戦史叢書 海軍航空概史』(朝雲新聞社 1976年)
- 『戦史叢書 海軍捷号作戦1』(朝雲新聞社 1970年)
- 『連合艦隊海空戦戦闘詳報別巻1』(アテネ書房 1996年)