谷首古墳
谷首古墳 | |
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墳丘 | |
別名 | 谷汲古墳 |
所在地 | 奈良県桜井市阿部802(字谷汲) |
位置 | 北緯34度30分4.55秒 東経135度50分37.55秒 / 北緯34.5012639度 東経135.8437639度座標: 北緯34度30分4.55秒 東経135度50分37.55秒 / 北緯34.5012639度 東経135.8437639度 |
形状 | 方墳 |
規模 |
東西35m・南北38m 高さ8.2m |
埋葬施設 |
両袖式(または片袖式)横穴式石室 (内部に石棺か) |
出土品 | 須恵器片 |
築造時期 | 7世紀初頭-前半 |
史跡 | 奈良県指定史跡「谷首古墳」 |
地図 |
谷首古墳(たにくびこふん)は、奈良県桜井市阿部にある古墳。形状は方墳。奈良県指定史跡に指定されている。
概要
[編集]古墳名 | 石室 | 築造時期 | 史跡 |
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コロコロ山古墳 | 6c末-7c初 | なし | |
谷首古墳 | 7c初-7c前半 | 県史跡 | |
文殊院東古墳 | 7c前半 | 県史跡 | |
艸墓古墳 | 7c中 | 国史跡 | |
文殊院西古墳 | 7c後半 | 国特別史跡 |
奈良盆地南部、寺川左岸の阿部丘陵西辺に築造された古墳である[1]。現在は墳丘上に八幡神社が鎮座し、社殿造営に伴い墳丘はやや削平を受けている。古くから開口して盗掘に遭っているほか[2]、これまでに発掘調査は実施されていない[3]。
墳形は方形で、墳丘各辺は正方位をとり、東西約35メートル・南北約38メートル・高さ約8.2メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式(または片袖式)の横穴式石室で、巨石を用いた大型石室であり、南方向に開口する[1]。出土品としては若干の須恵器片と凝灰岩の細片がある[2]。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀初頭-前半[4](または後期-終末期の6世紀末葉-7世紀初頭[2][1])頃と推定される。阿部丘陵では巨石墳として本古墳のほかにも艸墓古墳・文殊院西古墳などが知られるほか、周辺の遺跡では大型建物跡も検出されており、古代氏族の阿倍氏との関係性が指摘される[3]。特に本古墳は阿部丘陵では最初の巨石墳であり、その嚆矢に位置づけられる[4]。
古墳域は1958年(昭和33年)に奈良県指定史跡に指定されている[5]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式(または片袖式)横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。袖は東側が非常に短い形態を取る。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:13.8メートル[3]
- 玄室:長さ約6メートル、幅約2.8メートル、高さ約4メートル
- 羨道:長さ約7.8メートル、幅1.7メートル、高さ1.8メートル
石室は花崗岩の巨石を使用した極めて規模の大きいものである[1]。壁面は玄室では奥壁2段積み・側壁3段積みであり、羨道では1段積みである[2]。玄室はやや持ち送って積み上げられる[2]。また天井石は玄室で2石、羨道で4石から構成される[2][1]。石室内には礫敷が認められる[1]。また凝灰岩の細片が検出されていることから、石棺の使用が推測される[3][1]。
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石室俯瞰図
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玄室(奥壁方向)
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玄室(羨道方向)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
文化財
[編集]奈良県指定文化財
[編集]- 史跡
- 谷首古墳 - 所有者は八幡神社。1958年(昭和33年)3月20日指定[5]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 史跡説明板(奈良県教育委員会、1990年設置)
- 「谷首古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 清水眞一「谷首古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「谷首古墳」『桜井の横穴式石室を訪ねて』桜井市文化財協会、2010年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、谷首古墳に関するカテゴリがあります。