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諸嶽奕堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

諸嶽 奕堂(もろたけ えきどう[1]、またはしょがく えきどう[2]、俗姓:平野、1805年文化2年)[1] - 1879年明治12年)8月24日[1])は、日本曹洞宗僧侶[1]。總持寺独住1世、曹洞宗管長(弘済慈徳禅師)。号は旃崖・無以子[3]

略歴

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文化2年に尾張国(現・愛知県名古屋市)に生まれる。1813年(文化10年)愛知郡豊明村(現・豊明市聖應寺にて出家、霊若寺黄龍寺龍泰寺にて修行を重ね、三河国香積寺にて風外本高の下で悟りを開く[3]

1847年弘化4年)に京山科大宅寺住職となり、上野国龍海院天徳院を歴住。永平寺・總持寺の内紛を収めて、1870年(明治3年)に総持寺独住1世に[1]、その後曹洞宗管長に就任した[1]

1879年(明治12年)8月24日[1]山形県善宝寺で遷化。75歳没[1]

弟子

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森田悟由滝谷琢宗

著書

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  • 『懶眠余稿』(金山貫苗、1891年)
  • 『総持奕堂禅師遺稿』(蘿月照巌編、1896年)
  • 『旃崖奕堂禅師語録』(蘿月照巌編、川口高風解説、1987年)

脚注・参考文献

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脚注
  1. ^ a b c d e f g h 諸岳奕堂」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E5%B2%B3%E5%A5%95%E5%A0%82コトバンクより2020年7月11日閲覧 
  2. ^ 旃崖”. CiNii. 2016年3月13日閲覧。
  3. ^ a b 諸岳奕堂」『美術人名辞典』https://kotobank.jp/word/%E8%AB%B8%E5%B2%B3%E5%A5%95%E5%A0%82コトバンクより2020年7月11日閲覧 
参考文献
先代
總持寺
独住1世:1870-
次代
畔上楳仙