諸嶽奕堂
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諸嶽 奕堂(もろたけ えきどう[1]、またはしょがく えきどう[2]、俗姓:平野、1805年(文化2年)[1] - 1879年(明治12年)8月24日[1])は、日本の曹洞宗僧侶[1]。總持寺独住1世、曹洞宗管長(弘済慈徳禅師)。号は旃崖・無以子[3]。
略歴
[編集]文化2年に尾張国(現・愛知県名古屋市)に生まれる。1813年(文化10年)愛知郡豊明村(現・豊明市)聖應寺にて出家、霊若寺、黄龍寺、龍泰寺にて修行を重ね、三河国香積寺にて風外本高の下で悟りを開く[3]。
1847年(弘化4年)に京山科大宅寺住職となり、上野国龍海院、天徳院を歴住。永平寺・總持寺の内紛を収めて、1870年(明治3年)に総持寺独住1世に[1]、その後曹洞宗管長に就任した[1]。
1879年(明治12年)8月24日[1]に山形県善宝寺で遷化。75歳没[1]。
弟子
[編集]著書
[編集]- 『懶眠余稿』(金山貫苗、1891年)
- 『総持奕堂禅師遺稿』(蘿月照巌編、1896年)
- 『旃崖奕堂禅師語録』(蘿月照巌編、川口高風解説、1987年)
脚注・参考文献
[編集]- 脚注
- 参考文献
- 『禅学大辞典』(大修館書店)p. 1229
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