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諏訪部定治 (喜右衛門)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
諏訪部 定治
時代 江戸時代前期
死没 享保6年10月9日1721年11月27日
別名 諏訪部喜右衛門
戒名 日寥
墓所 武蔵国雑司ヶ谷法明寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
氏族 清和源氏満快流諏訪部氏[1]
父母 諏訪部定矩
兄弟 諏訪部定直、定治、栗原利実
諏訪部定利
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諏訪部 定治(すわべ さだはる[1])は江戸時代前期の旗本江戸幕府御馬預。

経歴

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江戸幕府旗本諏訪部定矩の次男として生まれた[1]万治2年(1659年)7月13日父の隠居により兄定直が跡を継いで630石を知行し[1]、12月21日[2]定治に相模国高座郡近江国栗太郡の内200石が分知された[1]。寛文13年(1673年)4月18日叔父黒沢定幸の子次郎兵衛定伯が死去すると[3]、その子が幼少のため[4]延宝2年(1674年)9月3日御預の御馬方として[1]代わりに徳川家綱御用馬を管理し、屋敷も支給された[4]。延宝3年(1675年)9月10日御馬預となった[2]

貞享元年(1684年)9月16日[1]中山勘兵衛守安と共に御馬買衆として陸奥国へ赴き、馬を買い付けた[5]。貞享2年(1685年)と貞享4年(1687年)には門奈助右衛門忠重と、元禄2年(1689年)にも中山守安と御馬買衆を務めたが[5]、元禄4年(1691年)4月御馬買衆制度は廃止が決まり、盛岡藩等に直接江戸へ納入させる御買馬制度に移行した[6]。同年10月[7]中山守安等と最後の御馬買衆として[8]盛岡馬丁会所を訪れた際、盛岡城中の丸へ宴会に招かれ、近習波々伯喜太郎が南部駒牽唄を披露し、翌年以降江戸納入時の歌として歌い継がれたという[8]

元禄14年(1701年)8月21日職務上の不手際により小普請に左遷され、宝永7年(1710年)7月27日致仕した[1]享保6年(1721年)10月9日死去し、雑司ヶ谷法明寺に葬られた[1]。法名は日寥[1]

親族

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  • 父:諏訪部元入定矩[1]
  • 兄:諏訪部彦兵衛定直 - 正保3年(1646年)12月4日西城に出仕、万治2年(1659年)7月13日御馬預、天和元年(1681年)3月28日小普請、元禄4年(1691年)3月2日没[1]
  • 弟:栗原仁右衛門利実 - 栗原七郎兵衛利智の養子[1]
  • 子:諏訪部源右衛門定利 - 貞享3年(1686年)3月1日徳川綱吉御目見宝永7年(1710年)7月27日小普請、享保7年(1722年)1月23日没[1]

子孫

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  1. 孫:諏訪部権蔵定之 - 享保7年(1722年)4月2日跡を継いだが、享保10年(1725年)4月21日19歳で没[1]
  2. 諏訪部源右衛門定親 - 定直の子宗右衛門高寛の次男[1]。享保10年(1725年)7月2日跡を継ぎ、寛延元年(1748年)9月28日小十人明和4年(1767年)9月5日56歳で没[1]
  3. 諏訪部友次郎定堅 - 明和4年(1767年)11月4日跡を継いだ[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 寛政譜.
  2. ^ a b 略譜.
  3. ^ 断家譜.
  4. ^ a b 徳川実紀, p. 817.
  5. ^ a b 細井, 兼平 & 杉山 2002, p. 9.
  6. ^ 細井, 兼平 & 杉山 2002, p. 11.
  7. ^ NHK, p. 53.
  8. ^ a b 松岡.

参考文献

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  • 堀田正敦「諏訪部」『寛政重修諸家譜』 巻第346。NDLJP:2577375/37 
  • 「諏訪部」『略譜』。諏訪・諏訪部 - 国立公文書館デジタルアーカイブ。 
  • 田畑吉正「黒沢」『断家譜』 第2、続群書類従完成会、1968年10月。 
  • 林述斎、成島司直「厳有院殿御実紀巻49」『徳川実紀』 第3編、経済雑誌社、1904年5月。NDLJP:1917845/414 
  • 細井計, 兼平賢治, 杉山令奈「公儀御馬買衆と盛岡藩」『岩手大学教育学部研究年報』第61巻第2号、岩手大学教育学部、2002年2月、149-168頁、CRID 1390290699872295680doi:10.15113/00011437ISSN 0367-7370 
  • 日本放送協会東北支部『東北民謡集』日本放送協会東北支部、1933年5月。NDLJP:1212840/32 
  • 松岡裕治. “曲目解説<岩手県> な~も”. 日本の民謡~CDで聴く故郷の唄. 暁洲舎. 2018年10月29日閲覧。