観規
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観規 | |
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? - 天応2年(782年)2月15日 | |
生地 | 紀伊国名草郡能応里 |
没地 | 紀伊国名草郡能応里(現在の和歌山市納定)の弥勒寺(能応寺) |
弟子 | 明規? |
観規(かんき、生年不詳 - 天応2年2月15日(782年4月2日))は、『日本霊異記』に登場する奈良時代の僧。俗名は三間名干岐(みまなのかんき)。
出自
[編集]三間名氏は、朝鮮半島に存在した任那からの渡来人の末裔である。『新撰姓氏録』には、「三間名公 弥麻奈国主牟留智王後也」とある(ただし、観規の姓は記されておらず、三間名公氏と同族であったかは不明)。
概要
[編集]紀伊国名草郡の出身。能応里(現在の和歌山市納定)にて生まれたという。俗名は三間名干岐といい(ただし、干岐は本来古代朝鮮の尊称であり、観規の場合も干岐は名前でなく尊称であった可能性がある)、出家して観岐と名乗った。
観規は聖武天皇・光仁天皇・桓武天皇に仕えた彫刻に巧みで智恵のある僧であったが、農業を営み、妻子を持ち俗人としての生活を送っていた。氏寺は弥勒寺(能応寺とも)といい、宝亀10年(779年)には、弥勒寺に釈迦丈六像と脇侍像を作り安置した。その後に10尺の十一面観音像を作ろうとしたが、天応2年(782年)にそのなかばで死んだ。だが2日後に生き返り、仏師に完成を願って2月15日の仏涅槃の日に死んだという[1]。