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西郷従吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西郷 従吾
さいごう じゅうご
生誕 1903年明治36年)5月19日
日本の旗 日本鹿児島県
死没 (1980-06-14) 1980年6月14日(77歳没)
日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1924年 - 1946年
最終階級 陸軍大佐
墓所 多磨霊園
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西郷 従吾(さいごう じゅうご、1903年明治36年)5月19日 - 1980年昭和55年)6月14日)は、日本陸軍軍人。最終階級は大佐

経歴

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本籍鹿児島県。陸軍大佐侯爵西郷従徳の長男として東京府で生れる。母は岩倉具定の二女・豊子。学習院中等科陸軍中央幼年学校予科同校本科を経て、1924年大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を卒業。同年10月、陸軍歩兵少尉任官歩兵第1聯隊附となる。1932年(昭和7年)11月、陸軍大学校(44期)を卒業した。

1933年(昭和8年)8月、歩兵第1聯隊中隊長となり、参謀本部附勤務、参謀本部々員を経て、1935年(昭和10年)8月、ドイツへ出張した。1936年(昭和11年)6月から東プロイセン歩兵連隊付となり、オーストリア大使館附武官などを務めた。1938年(昭和13年)3月、陸軍少佐に進級。1939年(昭和14年)11月、近衛混成旅団参謀に就任し、第21軍参謀、南支那方面軍参謀などを歴任し、1940年(昭和15年)8月、陸軍中佐に進む。同年10月、陸軍省人事局課員を経て、1941年(昭和16年)3月、ドイツに出張。1942年(昭和17年)11月、大本営参謀となり、以後、南方軍参謀などを経て、1944年(昭和19年)3月、陸軍大佐に昇進し緬甸方面軍参謀となる。さらに、第23軍参謀を経て、第20軍高級参謀として華中で終戦を迎えた。第20軍司令官坂西一良は病を得て帰還の途次に病没するが、西郷はただ一人、その死に至るまで病室に付き添っていた[1]。坂西の主治医は西郷を激賞している[1]1946年(昭和21年)11月に復員

1961年(昭和36年)世界政経調査会設立に参画。墓所は多磨霊園(10-1-1-1)

栄典

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位階・勲章

外国勲章佩用允許

家族親族

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  • 祖父:西郷従道
  • 妻:西郷静子 池田仲博(侯爵)の娘
    • 長男:西郷従紀(1927-1928[8]
    • 長女:西郷祐子(安場保文夫人、1930/3/5生[8]
    • 二女:西郷朋子(池澤幹男夫人、1934年6月10日生[8]
    • 二男:西郷従節(1941/9/4生[8]
    • 孫:西郷従洋(1968/9/15生[8]
    • 孫:西郷従英(1972/10/15[8]

脚注

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  1. ^ a b 明治百年史叢書第99巻稲葉正夫編『岡村寧次大将資料 戦場回想編』(原書房)84頁
  2. ^ 『官報』1937年7月7日「叙任及辞令」。
  3. ^ 『官報』1940年2月20日「叙任及辞令」。
  4. ^ 『官報』1938年12月9日「叙任及辞令」。
  5. ^ 『官報』1940年1月24日「叙任及辞令」。
  6. ^ 『官報』1941年9月15日「叙任及辞令」。
  7. ^ 『官報』1943年2月22日「叙任及辞令」。
  8. ^ a b c d e f 平成新修旧華族家系大成上p624

関連項目

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