コンテンツにスキップ

西田千太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
にしだ せんたろう

西田 千太郎
生誕 1862年11月9日文久2年9月18日
出雲国(現・島根県松江市雑賀町)
死没 1897年(明治30年)3月15日
職業 教育者
肩書き 松江中学校長心得
配偶者 クラ
子供 長女キン 長男哲二 次男敬三 三男兵四郎
テンプレートを表示

西田 千太郎(にしだ せんたろう、1862年11月9日文久2年9月18日) - 1897年明治30年)3月15日)は、島根県出身の日本の教育者小泉八雲が最も信頼を寄せた人物として知られる[1]

生涯

[編集]

文久2年(1862年)、現在の島根県松江市雑賀町に、松江藩士西田半兵衛の長男として生まれる。旧制松江中学校の授業助手として採用された後、文部省中等教員検定試験に合格し、心理、倫理、経済、教育の4科目の免許状を受けた。兵庫県姫路中学校、香川県済々学館勤務を経て、明治21年(1888年)島根県尋常中学校教頭となる。学校の再建に着手し、教授法の改善、経費の削減などに努めた。明治23年(1890年)小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を同校の英語教師として迎え、友好を深め、小泉節子との媒酌人もつとめた。

明治30年(1897年)結核を患い、36歳で短い生涯を終えた。

病気を患い欠勤がちではあったが教育界での人望は厚く、八雲と生涯の友情を保った人物として知られ、没後120年を記念して小泉八雲記念館で企画展が催された[1]

家族

[編集]
  • 父・西田半兵衛 - 松江藩士
  • 妻・クラ - 明治17年に結婚し、一女三男を儲ける[2]
  • 長男・哲二 - 東京帝国大学工学部に学んだが、30才で夭折[2]
  • 次男・敬三(1891-1980) - 東京大学農学部水産学科卒業後、農商務省水産局、同水産講習所を経て、1922年より朝鮮総督府水産試験場技手・場長、1945年帰国し、広島大学水畜産学部教授・学部長[2]

来歴

[編集]
  • 1862年(文久2年) - 島根県松江市雑賀町に生まれる。
  • 1873年(明治6年) - 藩立修道館に入学。
  • 1873年(明治6年) - 雑賀小学校に入学。
  • 1876年(明治9年) - 教員伝習校変則中学(松江中学校)に入学。
  • 1880年(明治13年) - 松江中学校を退学。授業手伝となる。
  • 1884年(明治17年) - 安食クラと結婚。
  • 1885年(明治18年) - 長女キン誕生。松江中学校を退職。
  • 1886年(明治19年) - 中等教員免許試験(心理学、倫理学、経済学、教育学)に合格。姫路中学校教員となる。
  • 1887年(明治20年) - 坂出私立済々学館教長となる。
  • 1888年(明治21年) - 長男哲二誕生。島根県尋常中学校教諭となる。
  • 1889年(明治22年) - 島根県尋常中学校教頭心得兼務となる[3]
  • 1890年(明治23年) - 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と出会い、同校講師に迎える。
  • 1891年(明治24年) - 島根県尋常中学校校長心得となる[3]
  • 1891年(明治25年) - 次男敬三誕生。
  • 1894年(明治26年) - 島根県私立教育会から功績賞を受ける。三男兵士郎誕生。
  • 1895年(明治27年) - 日本弘道会松江支会長に就任。
  • 1897年(明治30年) - 在職中病没(享年36歳)。

書籍

[編集]
  • 『西田千太郎日記 全一巻』島根郷土資料刊行会、1976年6月。 NCID BN11853383 
  • 村松真吾編 編、常松正雄 訳『ラフカディオ・ハーン西田千太郎往復書簡』八雲会、2020年6月。 NCID BC01789509全国書誌番号:23415617 

脚注

[編集]
  1. ^ a b 「八雲との強い絆伝える 没後120年で初企画展」 山陰中央新報、2017年4月7日版。
  2. ^ a b c 朝鮮から日本海の水産を見守った男達島根県
  3. ^ a b 「教育者ラフカディオ・ハーンの世界」P477。

参考文献

[編集]
  • 『西田千太郎日記』島根郷土資料刊行会、1976年6月
  • 島根大学附属図書館小泉八雲出版編集委員会編『教育者ラフカディオ・ハーンの世界―小泉八雲の西田千太郎宛書簡を中心に―』ワン・ライン、2006年11月
  • 伊藤菊之輔著『島根県人名事典』国書刊行会、1980年5月
  • 島根県歴史人物事典刊行委員会『島根県歴史人物事典』山陰中央新報社、1997年11月

外部リンク

[編集]