西山弥太郎
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西山 弥太郎(にしやま やたろう、1893年8月5日[1] - 1966年8月10日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。陸軍中将・西山福太郎は実兄。
経歴
[編集]神奈川県淘綾郡吾妻村(令和現在の中郡二宮町)の出身[1]。実家は井筒屋の屋号で宝永年間より街道沿いの旅宿を営んでいたが、明治維新後は交通機関の発達などもあり父の代で廃業。以後は養蚕業及び網元を生業とした。弥太郎は父・豊八、母・ヒロのもと十二人兄弟の十男[注 1]として1893年(明治26年)8月に生まれる。兄弟が多かった為、弥太郎を含む4人[注 2]以外は他家に養子入りし、実家は後に二男(長男は夭折)の斧三郎が継いだ。1908年(明治41年)春に満14歳で高等小学校を卒業すると、母方の親戚がやっていた横浜の金物店に手伝いとして入る。弥太郎はここで金物屋は儲かるのだと感じ、ならばその原料となる鉄を造る方がなお良いだろうと考えた。店を半年で辞めると勉学に打ち込み、1909年9月に東京神田の錦城中学校三学年に編入[注 3]。1912年(明治45年)春に卒業した。寸暇を惜しんで勉強を続けた結果、1913年(大正2年)9月には第一高等学校の二部に合格[2]。その後は東京帝国大学工学部鉄冶金学科に進み、俵国一の教えを受ける。二年生の夏休みには同級生ら7名で岩手県釜石に滞在し、釜石鉱山田中製鉄所で製鉄の実地を学んだ[注 4]。1919年(大正8年)に卒業すると同年川崎造船所に入社[1]。1942年6月に川崎重工業取締役、1950年(昭和25年)8月には川崎製鉄社長に就任した[1]。
1961年藍綬褒章を受章。1965年11月に勲二等瑞宝章を受章した[1]。1966年8月10日、胃がん転移のために死去[5]。73歳没。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 十一番目まで全て男子で末が女子。兄弟が多いのが普通だった当時でも十男はかなり珍しく、履歴書などに「十男」と書くと間違いではないか?とよく言われて億劫だったと後年本人が語っている[2]。
- ^ 二男の斧三郎、九男の福太郎(後に陸軍中将)、十男の弥太郎、末っ子で長女の鶴子の4人[2]。
- ^ 錦城中は当時開成中、海城中と並ぶ私立の名門とされた。第1次鳩山内閣で労働大臣を務める千葉三郎もまた錦城中学の第三学年編入組であり、一高そして東京帝大と同じ進学先へ進んだ弥太郎の同窓生である[3]。
- ^ 釜石は鉄鉱山と高炉が同じ場所にある日本唯一の場所であり、当時釜石での実習は同大冶金科の学生にとって必修であった[4]。
出典
[編集]- ^ a b c d e 人事興信所 1966, に73頁.
- ^ a b c 『西山弥太郎:鉄鋼巨人伝』鉄鋼新聞社、1971年、4-7頁。NDLJP:12189571/24。
- ^ 『西山弥太郎追悼集』西山記念事業会、1967年、162頁。NDLJP:2975004/105。
- ^ 『西山弥太郎:鉄鋼巨人伝』鉄鋼新聞社、1971年、32頁。NDLJP:12189571/38。
- ^ 1966年 8月11日 読売新聞 朝刊 p15
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第23版 下』人事興信所、1966年。