裴佶
裴佶(はい きつ、752年 - 813年)は、唐代の官僚。字は弘正[1]。本貫は絳州稷山県[2][3]。
経歴
[編集]尚書右僕射の裴耀卿の孫にあたる。吏部郎中の裴綜の子として生まれた[4]。裴佶は幼くして文章を作ることができた。弱冠にして進士に及第し、校書郎に任じられた。のちに藍田県尉として出向した。畿内諸県に奉天に城を築くよう勅命が下ったとき、京兆尹の厳郢が残酷横暴な統治をおこなっており、勅命をたてに部下たちを圧迫した。本曹尉の韋重規はその妻が妊娠し病にもかかっていたが、厳郢の暴力を恐れて、あえて役務を免れようとしなかった。裴佶がこのためかれの交代を請願し、役務は予定を超過させなかったので、当時に道義にかなった行いを称賛された[5][1]。
興元元年(784年)、徳宗が梁州に避難すると、裴佶は行在に赴き、拾遺に任じられ、補闕に転じた。李懐光が河中府で反乱を起こすと、朝廷は恥を忍んでかれを許そうとしたが、裴佶は抗議して討伐を願い出た。三度異動して吏部員外郎となり、駕部郎中・兵部郎中を経て、諫議大夫に転じた。貞元17年(801年)、黔中観察使の韋士宗が残酷な統治をおこなったため、獠族たちに追放され、裴佶がこれに代わって黔中観察使となった。のちに風土病にかかり、入朝を強く請願して、同州刺史に任じられた。入朝して中書舎人となり、尚書右丞に転じた[6][1]。
元和2年(807年)[7]、兵部尚書の李巽が塩鉄使を兼ねると、塩鉄使の局を兵部に置こうとしたので、裴佶は強くその不可を上申して、取りやめられた。吏部侍郎に任じられた。病のため国子祭酒に任じられた。ほどなく工部尚書に転じて、致仕した[6][1]。元和8年(813年)6月乙酉、死去した[8]。享年は62。吏部尚書の位を追贈された。諡は貞といった[6][1]。
脚注
[編集]伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。