蛇田村
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へびたむら 蛇田村 | |
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廃止日 | 1955年1月1日 |
廃止理由 |
編入合併 蛇田村 → 石巻市 |
現在の自治体 | 石巻市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 東北地方 |
都道府県 | 宮城県 |
郡 | 牡鹿郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 9.65 km2. |
総人口 |
5,032人 (『宮城県町村合併誌』、1954年12月31日) |
隣接自治体 |
牡鹿郡:渡波町 桃生郡:鹿又村、須江村、赤井村 石巻市 |
蛇田村役場 | |
所在地 | 宮城県牡鹿郡蛇田村 |
座標 | 北緯38度26分44秒 東経141度16分47秒 / 北緯38.445612度 東経141.279752度座標: 北緯38度26分44秒 東経141度16分47秒 / 北緯38.445612度 東経141.279752度 |
ウィキプロジェクト |
蛇田村(へびたむら)は、昭和29年(1954年)まで宮城県牡鹿郡の北西部にあった村。
地理
[編集]- 河川:旧北上川
歴史
[編集]蛇田村の由来
[編集]安永風土記によれば、ツバメがくわえてきた瓜の実を植えたところ、大きな実がなり、その中から数多のヘビが出てきたため、村の南西に埋め塚を築き、名を蛇塚とした。そのため、村の名を蛇多とし、後年に蛇田と書き替えたという[1]。
また、一説によると『上毛野田道が大蛇となって蝦夷を破った』という征夷伝説を信じた村人が蛇田道公と尊称し、それを祀ったためともある[1][2]。
沿革
[編集]- 1666年(寛文6年)- 石巻宿の方から農民が移住。
- 1868年(明治元年)- 仙台藩から高崎藩の支配下になる。
- 1872年(明治5年)- 桃生県、石巻県、登米県、仙台県を経て、宮城県の所属になる。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともない、旧来の蛇田村単独で村制施行。
- 1933年(昭和8年)- 一部を石巻市へ編入[2]。
- 1949年(昭和24年)- 明神山・山下・山下西・鍋倉・鍋倉前・南谷地・七窪・横堤・横堤南・揚慮原(うつみはら)・揚慮原西・深淵・境谷地・清水尻・清水尻西・西中里・東中里・面剣田・水押を石巻市へ編入[2]。
- 1953年(昭和28年)- 桃生郡鹿又村との間で境界改訂が行われる[2]。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 石巻市に編入され、石巻市蛇田となる[2]。
行政
[編集]- 歴代村長
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
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1 | 高瀬直記 | 明治22年(1889年)4月 | 明治25年(1892年)4月 | |
2 | 菅野又甚三郎 | 明治25年(1892年)5月 | 明治36年(1903年)8月 | |
3 | 川村喜十郎 | 明治36年(1903年)8月 | 明治42年(1909年)2月 | |
4 | 川村豊吉 | 明治42年(1909年)3月 | 明治43年(1910年)2月 | |
5 | 遠藤章平 | 明治43年(1910年)3月 | 大正2年(1913年)11月 | |
6 | 大内久馬 | 大正2年(1913年)12月 | 大正10年(1921年)2月 | |
7 | 菅野又甚三郎 | 大正10年(1921年)4月 | 大正14年(1925年)5月 | 再任 |
8 | 千葉友治 | 大正14年(1925年)5月 | 昭和5年(1930年)11月 | |
9 | 木村義三郎 | 昭和5年(1930年)11月 | 昭和9年(1934年)11月 | |
10 | 勝又朝治 | 昭和9年(1934年)12月 | 昭和11年(1936年)10月 | |
11 | 布施長蔵 | 昭和11年(1936年)11月 | 昭和14年(1939年)12月 | |
12 | 山田海秀 | 昭和15年(1940年)2月 | 昭和19年(1944年)9月 | |
13 | 手塚周五郎 | 昭和19年(1944年)9月 | 昭和21年(1946年)10月 | |
14 | 宍戸孔一 | 昭和22年(1947年)4月 | 昭和29年(1954年)12月31日 |
交通
[編集]鉄道
[編集]著名な出身者
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『宮城県町村合併誌』(宮城県地方課、1958)