藤生金六
表示
ふじう きんろく 藤生 金六 | |
---|---|
生誕 |
1859年8月31日 日本、上野国山田郡大間々(現在の群馬県みどり市)丹後国峰山藩 |
死没 |
1859年8月31日 (-48歳没) 日本、東京市牛込区東五軒町 |
国籍 | 日本 |
職業 | 教育者、牧師、新聞記者 |
藤生 金六(ふじう きんろく、1859年8月31日(安政6年8月4日) - 1907年(明治40年)7月13日)は、明治期の日本の教育者・牧師。横浜バンドのメンバーである。
生涯
[編集]初期
[編集]上野国山田郡大間々(現・群馬県みどり市)生まれ。1874年(明治7年)に神奈川県横浜市の英学校・修文館で学び、1875年(明治8年)より、東京語学校等で学ぶ。
ブラウン塾
[編集]1874年秋よりブラウン塾で学びはじめ、S・R・ブラウン、ヘンリー・ルーミス、エドワード・ローゼイ・ミラーより神学と哲学を学ぶ。1877年(明治10年)7月にブラウン塾を卒業して、東京一致神学校で学ぶ。
役人・教育者
[編集]1879年(明治12年)5月から農商業に従事。1883年(明治16年)に上野新報商議委員及び主任記者、1884年(明治17年)より横浜のヘラルド新聞の記者となる。
1885年(明治18年)より仙台神学校教授、1888年(明治21年)より荘内私立中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)の初代校長に就任[1][2]。1890年(明治23年)より仙台の宮城女学校(宮城学院)幹事を務めた。
牧師時代
[編集]1894年(明治27年)2月より東京の第二中会の下谷教会(現・日本基督教団豊島岡教会)牧師に迎えられる[3]。また、新栄教会での日本基督教会大会議長を務め、田村直臣の『日本の花嫁』事件の弾劾動議を採択した。
同年8月、日本基督教会宮城中会による会津伝道のために会津若松に赴任し、北小路町に講義所を開設(のちの若松栄町教会)[3][4]。伝道の傍ら藤生が開いた英語塾には野口英世(当時は野口清作)も通っており、翌年4月に藤生から受洗した[4]。1897年(明治30年)、病気のために退任[4]。
脚注
[編集]- ^ “郷土の先人・先覚115 《五十嵐 喜広》”. 荘内日報社. 2014年6月25日閲覧。
- ^ “郷土の先人・先覚59 《白井 久井》”. 荘内日報社. 2014年6月25日閲覧。
- ^ a b 『日本キリスト教歴史大事典』P.1215
- ^ a b c “日本基督教団若松栄町教会100年のあらまし”. 日本基督教団若松栄町教会. 2014年6月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年
- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年
外部リンク
[編集]- 大間々の人物 - みどり市大間々博物館