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藤沢長達

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤沢 長達
時代 江戸時代中期
生誕 元禄16年(1703年
死没 明和8年2月27日1771年4月11日
別名 直民(名)、斯道・子鏈(字)、南川(号)[1]
墓所 江戸深川浄心寺
幕府 江戸幕府佐渡奉行所
主君 土方雄房雄端雄年
伊勢菰野藩
氏族 藤沢氏
父母 藤沢泰尚
藤沢子山
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藤沢 長達(ふじさわ ちょうたつ)は江戸時代中期の儒学者、医師。佐渡奉行所付医員、伊勢菰野藩儒医。

生涯

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元禄16年(1703年)生まれ[2]。住所は相川中京町[3]。幼くして片眼を失い、吃音となった[4]。享保7年(1722年)家を従弟清右衛門に譲り[5]京都後藤艮山に医学を学び、享保10年(1725年)伊藤東涯の塾に入った[1]朱子学を批判し、古文辞学を好んだ[4]

帰郷後、享保15年(1730年)頃佐渡奉行所の命で産物調査書『佐州図上』を編集し[6]享保16年(1731年)佐渡陣屋付医員となった[1]。享保18年(1733年)佐渡奉行萩原美雅による弥十郎町天満宮の再建に対して「重修菅廟記」を寄せたところ、室鳩巣の目に入り、書後を贈られた[7]。享保20年(1735年)諸国産物令が出されると、元文2年(1737年)大平道悦と共に『佐渡島採薬譜』を編集した[8]

寛延元年(1748年)江戸に出て[3]、5月菰野藩に20人扶持で招聘され、在所詰として菰野に移住した[4]明和元年(1764年)朝鮮通信使が来訪し、「朝鮮制述官三書記医官に寄す」を寄せた[5]

明和7年(1770年)江戸に戻り、明和8年(1771年)2月27日69歳で死去し、深川浄心寺に葬られた[9]

編著

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  • 『南川刪稿』[3]
  • 『清燕答問』[3]
  • 『佐州図上』 - 享保15年(1730年)灌園道人(不詳)序。序文には長達自身が採集・作図したように書かれてあるが、実際は奉行所役人が採集し、奉行所付絵師により作図された[6]。写本に『佐抄図』『佐渡国物産』『佐渡物産志』『佐渡産物志』がある[10]
  • 『佐渡島採薬譜』 - 享保20年(1735年)の諸国産物令に応じ、奉行所付絵師山尾衛守・古河主左衛門に『佐州図上』を模写させ、元文2年(1737年)大平道悦編『佐渡産物帳』と合わせて完成させた。丹羽正伯編『庶物類纂』に用いられた[8]。写本に『佐州産物志』がある[11]

親族

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先祖藤沢頼親信濃国伊那郡を領したが、天正年間箕輪城保科正直により落城した後、越後上杉氏に就き、佐渡国攻略に従い佐渡に渡り、会津転封後も浪人として留まったという[9]

  • 曽祖父:藤沢泰親 - 頼親の子。相川町年寄となった[9]
  • 父:藤沢八右衛門泰尚 - 晩年自悦と号した。五段の将棋を指したという[9]
  • 長男:藤沢子山 - 菰野藩に仕えた後、佐渡に帰郷した。

脚注

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  1. ^ a b c 本間 1915, p. 63.
  2. ^ 安江 1985, p. 130.
  3. ^ a b c d 岩木 1927, p. 257.
  4. ^ a b c 菰野町 1941, p. 358.
  5. ^ a b 萩野 1927, pp. 142–143.
  6. ^ a b 安江 1985, pp. 129–131.
  7. ^ 岩木 1927, pp. 257–258.
  8. ^ a b 安江 1987, pp. 31–32.
  9. ^ a b c d 萩野 1927, p. 142.
  10. ^ 安江 1985, pp. 131–133.
  11. ^ 安江 1987, p. 33.

参考文献

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