藤沢長達
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄16年(1703年) |
死没 | 明和8年2月27日(1771年4月11日) |
別名 | 直民(名)、斯道・子鏈(字)、南川(号)[1] |
墓所 | 江戸深川浄心寺 |
幕府 | 江戸幕府佐渡奉行所 |
主君 | 土方雄房、雄端、雄年 |
藩 | 伊勢菰野藩 |
氏族 | 藤沢氏 |
父母 | 藤沢泰尚 |
子 | 藤沢子山 |
藤沢 長達(ふじさわ ちょうたつ)は江戸時代中期の儒学者、医師。佐渡奉行所付医員、伊勢菰野藩儒医。
生涯
[編集]元禄16年(1703年)生まれ[2]。住所は相川中京町[3]。幼くして片眼を失い、吃音となった[4]。享保7年(1722年)家を従弟清右衛門に譲り[5]、京都で後藤艮山に医学を学び、享保10年(1725年)伊藤東涯の塾に入った[1]。朱子学を批判し、古文辞学を好んだ[4]。
帰郷後、享保15年(1730年)頃佐渡奉行所の命で産物調査書『佐州図上』を編集し[6]、享保16年(1731年)佐渡陣屋付医員となった[1]。享保18年(1733年)佐渡奉行萩原美雅による弥十郎町天満宮の再建に対して「重修菅廟記」を寄せたところ、室鳩巣の目に入り、書後を贈られた[7]。享保20年(1735年)諸国産物令が出されると、元文2年(1737年)大平道悦と共に『佐渡島採薬譜』を編集した[8]。
寛延元年(1748年)江戸に出て[3]、5月菰野藩に20人扶持で招聘され、在所詰として菰野に移住した[4]。明和元年(1764年)朝鮮通信使が来訪し、「朝鮮制述官三書記医官に寄す」を寄せた[5]。
明和7年(1770年)江戸に戻り、明和8年(1771年)2月27日69歳で死去し、深川浄心寺に葬られた[9]。
編著
[編集]- 『南川刪稿』[3]
- 『清燕答問』[3]
- 『佐州図上』 - 享保15年(1730年)灌園道人(不詳)序。序文には長達自身が採集・作図したように書かれてあるが、実際は奉行所役人が採集し、奉行所付絵師により作図された[6]。写本に『佐抄図』『佐渡国物産』『佐渡物産志』『佐渡産物志』がある[10]。
- 『佐渡島採薬譜』 - 享保20年(1735年)の諸国産物令に応じ、奉行所付絵師山尾衛守・古河主左衛門に『佐州図上』を模写させ、元文2年(1737年)大平道悦編『佐渡産物帳』と合わせて完成させた。丹羽正伯編『庶物類纂』に用いられた[8]。写本に『佐州産物志』がある[11]。
親族
[編集]先祖藤沢頼親は信濃国伊那郡を領したが、天正年間箕輪城が保科正直により落城した後、越後上杉氏に就き、佐渡国攻略に従い佐渡に渡り、会津転封後も浪人として留まったという[9]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 本間周敬『佐渡人名辞書』本間周敬、1915年3月。NDLJP:1183197/52
- 岩木拡『相川町誌』相川町役場、1927年7月。NDLJP:1173593/138
- 萩野由之『佐渡人物志』佐渡郡教育会、1927年10月。NDLJP:1188906/82
- 菰野町史編纂委員『菰野町史』菰野町史刊行会、1941年1月。NDLJP:1042154/208
- 安江政一「本草学的図説『佐州図上』について」『薬史学雑誌』第20巻第2号、日本薬史学会、1985年12月。
- 安江政一「『佐渡嶋採薬譜』の研究」『薬史学雑誌』第22巻第1号、日本薬史学会、1987年6月。