藤沢浅二郎
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ふじさわ あさじろう 藤澤 浅二郎 | |
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生年月日 | 1866年6月8日 |
没年月日 | 1917年3月3日(50歳没) |
出生地 | 日本 京都府 |
死没地 | 日本 東京府東京市浅草区今戸町(現在の東京都台東区今戸) |
職業 | 俳優、劇作家、ジャーナリスト |
ジャンル | 新派、劇映画(現代劇・時代劇、サイレント映画) |
活動期間 | 1888年 - 1917年 |
藤澤 浅二郎(藤沢-、ふじさわ あさじろう、天保暦 慶応2年4月25日 / グレゴリオ暦 1866年6月8日 - 1917年3月3日[1])は、日本の俳優、劇作家、ジャーナリストである[1]。
人物・来歴
[編集]1866年6月8日(旧暦 慶応2年4月25日)、現在の京都府に生まれる[1]。
長じて、京都市河原町通三條大黒町(現在の同市中京区大黒町)にあった平民新聞社で雑誌『活眼』の記者となり[1]、1888年(明治21年)、中江兆民を主筆に大阪で創刊された『東雲新聞』(東雲新聞社)[2]の記者となる[1]。このころ、川上音二郎と知り合う[1]。
1891年(明治24年)、川上音二郎が堺で旗揚げした書生芝居に参加、『板垣君遭難実記』、『日清戦争』等の戯曲を執筆、俳優としても舞台に立った[1]。「川上音二郎一座」の副将となった[1]。高田実らとも共演した[1]。当時の当たり役は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の「貫一」、菊池幽芳の『己が罪』の「塚口」等であった[1]。
1908年(明治41年)11月11日、自費で、東京・牛込に東京俳優養成所を開設した[1]。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、1911年(明治44年)には閉校となった。諸口十九、田中栄三、勝見庸太郎、新井淳らを輩出した。このころから、吉沢商店目黒撮影所の映画に出演を始める。同撮影所は、吉沢商店が合併して日活となった翌年の1913年(大正2年)には日活向島撮影所となり、閉鎖された。日活向島の映画にも引き続き出演した。
1917年(大正6年)3月3日、東京府東京市浅草区今戸町(現在の東京都台東区今戸)で死去した[1]。満50歳没。青山霊園に眠る。
主な出演映画
[編集]吉沢商店
[編集]- 1910年
- 『ハイカラ』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
- 『保険ぎらい』 : 監督・脚本不明、原作益田太郎冠者、共演木下吉之助
- 『競艶録』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・五味国太郎
- 『玉手箱』 : 監督・脚本不明、原作益田太郎冠者、共演木下吉之助・五味国太郎
- 『心の闇』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・五味国太郎
- 『新野崎村』 : 監督・脚本不明、共演福島清
- 『貸間』 : 監督・脚本不明
- 『犠牲』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・関根達発
- 『良心』 : 監督・脚本不明、共演木村操・関根達発
- 1911年
- 『影弁慶』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
- 『松の緑』 : 監督・脚本不明、原作吉沢商店考案部、共演福島清
- 『見合い』 : 監督・脚本不明、原作松居松翁
- 『梅の月影』 : 監督・脚本不明
- 『天風組』 : 監督・脚本不明、原作田口掬汀、共演本郷座合同一座・村田正雄・佐藤歳三
- 『約束ちがい』 : 監督・脚本不明
- 『はこべ売』 : 監督・脚本不明
- 『金貸と武士』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
- 『隣の女』 : 監督・脚本不明、原作紅葉山人
- 『薬ちがい』 : 監督・脚本不明、原作吉沢商店考案部
- 『走馬燈』 : 監督・脚本不明
- 『河内屋』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助・関根達発
- 『坂本竜馬』 : 監督・脚本不明
- 『しめだし』 : 監督・脚本不明
- 『炎』 : 監督・脚本不明、共演木下吉之助
- 『女文士』 : 監督・脚本不明
- 『闇と光』 : 監督・脚本不明
日活向島撮影所
[編集]- 1913年
- 1915年
参考文献
[編集]- 『名家真相録16・藤沢浅二郎』 - 『演芸画報』明治41年4月号、1908年