コンテンツにスキップ

藤塚知明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤塚 知明(ふじつか ともあき[注釈 1]1737年元文2年〉 - 1799年寛政11年〉[1]または1738年〈元文3年〉 - 1800年〈寛政12年〉[2][注釈 2])は、江戸時代中期の神職、学者である。式部を称したことから藤塚式部とも。元々は漁師の下に生まれたが、陸奥国仙台藩鹽竈神社の神職の養子となり、その地位を継いだ。神仏習合への反発から社僧と対立して事件を起こし、幽閉された後に死去した。林子平など当時の文化人と関りがあり、いくつかの著書を残した[1]

生涯

[編集]

藤塚知明は陸奥国桃生郡の大須浜[注釈 3]に生まれた。幼名は千之助または子之助といった。父の喜惣治は漁師だった。両親が早くに死去した後、千之助は親類の手引きで魚の取引先を頼り、仙台の肴町の魚問屋である永野屋に奉公した。永野屋の主人の利右衛門は学問に通じる人物で、千之助は才を認められて仙台の祠官の山田家に身を寄せた。それが縁となり、鹽竈神社の神職だった藤塚知直の養子となり、知直の娘の順と結婚したと伝わる[注釈 4][3]

藤塚家は代々、鹽竈神社の下位の祠官だった。知直の父の高理が、一時、職を離れて名取郡藤塚浜に身を置き、その時に藤塚を名乗るようになったという。知明は1785年(天明5年)に鹽竈神社別宮三禰宜となった[注釈 5][4]。この頃の鹽竈神社では、別当寺である法蓮寺の支配力が強く、社僧は神仏習合を推し進め、殿中に仏舎利を収めるなどしていた。社家はこれに強く反発し、1791年(寛政3年)になるとこの対立は仙台藩への直訴に発展した。1798年(寛政10年)に沙汰が下り、社家側の言い分が認められたが、法蓮寺を蔑ろにしたとして、知明は罪に問われた。知明はこの頃、隠居していたようだが、社家側の人間としてこの事件に大きく関わっていたらしい[5]。この事件は、仏舎利事件[6]や藤塚事件[1]と言われる。沙汰の後、知明は桃生郡鹿又村梅ノ木に幽閉された。知明の身柄を預かったのは仙台藩家臣の瀬上景福で、景福は知明の学徳を慕い、数名の家臣と共に知明に師事した。知明には庵が与えられ、その生活は自由であったという[7]。知明はここで没し、塩竈で葬られた[8][1]

現在、宮城県塩竃市のみのが丘霊園に知明の墓碑がある[9]

人物

[編集]

知明は学者でもあった。生粋の学者というわけではなく、系統立った著書は残さなかったが、特に神学、古碑、古歌に関心を持っていた。また、知明は名山蔵と称される書庫を持ち、ここに万巻の書が収められていたという[10]。知明の家には、中山高陽高山彦九郎蒲生君平、村井古巌などの文化人達が訪れた。同郷の人物である林子平との親交は特に厚かった[11]。子平は『三国通覧図説』を著すが、子平の蝦夷地に対する理解には知明の影響があったとされる[12]

知明の著書としては、古碑を研究した『坪碑史證考』、古歌の名物を研究した『花勝見考』などがある[10]。また、鹿又村に幽閉されていた晩年には、知明は弟子を連れて村の景勝を巡り、これを『河股八景』として残した[7][13]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 藤塚は「ふじづか」とも。
  2. ^ 『塩竈市史』によれば、資料や墓碑によって没年月日が異なるという。墓碑には「寛政庚申七月三日」とあり、『塩竈市史』はこれが一応正しいのだろうとする。
  3. ^ 現在の宮城県石巻市雄勝町大須。
  4. ^ 知明の婿入りの時期について、『塩竈市史』は宝暦8年(知明21歳)頃だろうとする。また、知直には知信という養子がいたが死没し、その後に知明が養子になったと述べている。
  5. ^ 別宮にはそれまで二禰宜までしか置かれていなかったのが、父知直以来の功績により知明が三禰宜に補任されたと、『塩竈市史』は記す。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 『三百藩家臣人名事典』第一巻152頁。
  2. ^ 『塩竈市史』別編1、498・505頁。
  3. ^ 『塩竈市史』別編1、498-499頁。
  4. ^ 『塩竈市史』別編1、499-500頁。
  5. ^ 『塩竈市史』別編1、506-507頁。
  6. ^ 平凡社地方資料センター 『宮城県の地名』(日本歴史地名大系第4巻) 平凡社、1987年、365頁。
  7. ^ a b 2005年『河南町史』上巻193-195頁。
  8. ^ 『塩竈市史』別編1、498頁。
  9. ^ 藤塚知明の墓”(文化の港シオーモ)2019年12月22日閲覧。
  10. ^ a b 『塩竈市史』別編1、502-505頁。
  11. ^ 『塩竈市史』別編1、500-201頁。
  12. ^ 『仙台市史』通史編5(近世3)424頁。
  13. ^ 1971年『河南町誌』下巻369-372頁。

参考文献

[編集]
  • 塩竈市史編纂委員会 『塩竈市史』別編1 国書刊行会、1982年。
  • 河南町史編纂委員会 『河南町史』上巻 河南町(宮城県)、2005年。
  • 河南町史編纂委員会 『河南町誌』下巻 河南町(宮城県)、1971年。
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編5(近世3) 仙台市、2004年。
  • 家臣人名事典編纂委員会 『三百藩家臣人名事典』第一巻 新人物往来社、1987年。