藤堂高文
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保5年(1720年) |
死没 | 天明4年6月13日(1784年7月29日) |
改名 | 三郎助(幼名)→高満(初名)→高文 |
別名 | 出雲(通称)、子樸(字)、東山(号)、魚目道人(号)、大僕(致仕称) |
主君 | 藤堂高朗 |
藩 | 伊勢国津藩 |
氏族 | 藤堂氏 |
父母 | 父:藤堂高武、母:武田氏 |
兄弟 | 高朗、見好(星野織部室)、高文、元資、高周、光敏 |
妻 | 正室:藤堂高溥の娘 |
子 | 高璞、藤堂良演室、藤堂信美室、小森兵庫室、高理、高寶、高穀、高弥、養子:高周 |
藤堂 高文(とうどう たかふみ)は、伊勢国津藩一門藤堂出雲家第6代。津藩第7代藩主藤堂高朗の実弟。久居藩第11代藩主高矗の祖父。漢学者。儒学者。
家系
[編集]藤堂出雲家は、藤堂高虎の異母弟高清に始まる。宗家の津藩主5代藤堂高敏で高虎の血統が絶え、高文の叔父高治が養子として6代藩主となって以降は藩主が出雲家の血を引くこととなる。 文武に秀でた人物を多く輩出している。藤堂高英陸軍中将は子孫。
略歴
[編集]享保5年(1720年)、津藩騎将(番頭)で藩主一門藤堂出雲家4代高武の四男として生まれる。
享保13年(1728年)、出雲家5代の兄高豊(高朗)が久居藩藩主となったため、8歳で家督と知行7000石を継ぎ騎将となる。享保20年(1735年)9月、兄高豊が津藩主となり仕える。
宝暦元年(1751年)11月、32歳で「故あって」家督を弟高周(たかかぬ)に譲り隠居し、隠居所で著述活動に専念する。
天明4年(1784年)6月13日死去。享年65。
人物
[編集]幼い頃から学問を好み、儒学者奥田三角(奥田士亨)の高弟となる。武術にも熱心で、特に柔道が得意。
藤堂家の藩史「宗国史」を編纂。尾張藩主の委嘱で、藤堂家の大坂夏の陣の戦記「元和先鋒録」を執筆した。
長男高璞の長男高矗は久居藩主を継いだ。
参考文献
[編集]- 東京大学史料編纂所「公室年譜略 巻第3 藤堂家系巻之2」
- 津市教育会編「津市文教史要」