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藤原通衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原通衡
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 未詳[1]
死没 文治5年6月26日1189年8月9日
別名 出羽冠者、出羽五郎、通平、和泉三郎(尊卑分脈より)、仙北五郎利衡?、泉三郎?、和泉七郎?
氏族 奥州藤原氏
父母 父:藤原秀衡、母:不詳[2]
兄弟 国衡泰衡忠衡高衡通衡頼衡、女?[3]
不詳
不詳[4]
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藤原 通衡(ふじわら の みちひら)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の奥州藤原氏武将奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の五男。六弟・頼衡と同様に、四人の兄達(国衡泰衡忠衡高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。

概略

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四人の兄達とは異なり、『吾妻鏡』には六弟にして末弟である頼衡と共に名前が見えず、また、『玉葉』、『愚管抄』、『明月記』、『六代勝事記』にも通衡に関する記述は無く、史料に乏しいため、詳細は不明。わずかに通衡の名が見える『尊卑分脈』には、三兄・忠衡の同母弟で、忠衡が父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため、次兄・泰衡に襲撃を受けた[5]。その際、通衡も共に討たれたとしている[6]。没年齢については正確には不明だが、三兄・忠衡が23歳で死亡したことを考えると、それより下の年齢であったと推測できる。また、末弟・頼衡に関する伝承の一つに16歳前後で没したというものがあり、これを信用するならば、通衡の享年は16歳以上23歳以下と考えられる。このような状況から、通衡も忠衡同様、義経保護を主張していたと考えることもできる。

平泉志の記述

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明治初期に著された『平泉志』には一説に「仙北五郎利衡」という名が見られることが指摘され、この人物は通衡と同一人物という推測がある。

出羽押領使

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『尊卑分脈』や天御中主尊に始まる『藤原氏系図』(個人蔵・江戸初期 京都本)の通衡の欄には、通衡が出羽押領使であったとの記載があるが、国衡が鹿角という一地域を抑えていたと思われることや『吾妻鏡』には泰衡が陸奥と出羽の押領使を継いだとあることから、通衡が出羽全域を抑えていたとは考えにくく、事実かどうかは疑問である。ただ、出羽冠者や出羽五郎、あるいは仙北五郎という別名から(仙北は秋田県南地域を指す)、出羽方面に何らかの関わりを持った人物であることは推測できる。

通称(別名)について

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秀衡の6人の息子の通称については史料によって差異があり、詳細はよく分からないところがある。『尊卑分脈』では五男の通衡に「泉三郎」が冠せられて三男の忠衡は「泉冠者」となっているが、泰衡に「泉冠者」を冠している史料もある。六男の頼衡の「錦戸太郎」は読みが同じである長男の国衡に冠せられている史料も多い。そもそもなぜ六男であるはずの頼衡が太郎と呼ばれているのかも不明である。

脚注

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  1. ^ 三兄である忠衡仁安2年(1167年)生まれであるため、四兄の高衡、六弟(末弟)の頼衡と同様にそれ以降の誕生と推測される。また、頼衡の伝承の一つによれば16歳前後で死去したことになっており、これを信用して生誕年を推測するならば、承安4年(1174年)前後もしくは嘉応3年、承安元年(1171年)から承安5年、安元元年(1175年)の間となる。よって、通衡に生誕年は仁安2年(1167年)から、承安4年(1174年)前後もしくは仁安2年(1167年)から嘉応3年、承安元年(1171年)から承安5年、安元元年(1175年)の間と推測できる。
  2. ^ 少なくとも、三兄である忠衡とは同腹の兄弟で次兄の泰衡とは異腹の兄弟とされる。このため、父の正室・藤原基成の娘所生の子ではないと考えられる。
  3. ^ 『平泉志』には『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』とあり、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが、系図に娘が記されていないとなる。
  4. ^ 通衡の後裔を称する氏族には、泉氏、和泉氏がいる。真偽の程は不明だが、これが事実なら通衡には子女がいたことになる。
  5. ^ 忠衡は義経誅殺に反対したとも推測されている。
  6. ^ 忠衡と同様に義経と通じていたとされ、加えて、忠衡の反乱(若しくは反乱計画)に加担した為、殺害されたと推測できる。

関連項目

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