コンテンツにスキップ

藤原継彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 継彦
時代 奈良時代後期 - 平安時代初期
生誕 天平勝宝元年(749年
死没 天長5年2月26日828年3月16日
官位 従三位刑部卿
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇淳和天皇
氏族 藤原京家
父母 父:藤原浜成、母:多治比縣守の娘
兄弟 永谷、継彦、臣継、大継承之豊彦、法壱
広敏、清敏、雄敏貞敏
テンプレートを表示

藤原 継彦(ふじわら の つぐひこ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族藤原京家参議藤原浜成の三男。官位従三位刑部卿

経歴

[編集]

宝亀11年(780年従五位下叙爵し、翌天応元年(781年兵部少輔に任ぜられる。天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱において、父・浜成と共に連座して解官となる。のち赦されて、桓武朝では、延暦8年(789年主計頭、延暦18年(799年左少弁陰陽頭、延暦24年(805年)左中弁、延暦25年(806年民部大輔を歴任する。

平城朝でも引き続き民部大輔を務め、大同3年(808年)には正五位下に叙せられている。

嵯峨朝に入り、大同5年(810年)正月に従四位下に叙せられ、同年9月に薬子の変が発生すると山城守に任ぜられている。その後、弘仁5年(814年)従四位上、弘仁11年(820年正四位下と順調に昇進し、弘仁13年(822年)には従三位に昇叙され公卿に列した[1]。またこの間、刑部卿を務めている。

天長5年(828年)2月26日薨去享年80。

人物

[編集]

生まれつき聡明鋭敏であり、見識を有しており度量もあった。天文暦法にも精通していた。管楽器弦楽器にも熟練しており、曲の演奏に誤りがあると、酒杯を重ねて酔っていても必ずあと振り返って正したという[2]

官歴

[編集]

注記のないものは『六国史』による。

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

脚注

[編集]
  1. ^ 日本後紀』弘仁13年11月1日条。『公卿補任』では従三位の叙位を天長3年正月7日とする。
  2. ^ 『日本後紀』天長5年2月26日条

出典

[編集]
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社講談社学術文庫〉、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年