藤原範永
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 正暦4年(993年)頃 |
死没 | 不詳 |
改名 | 範永→津入道 |
官位 | 正四位下、摂津守 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇 |
氏族 | 藤原北家長良流 |
父母 | 父:藤原中清、母:藤原永頼の娘 |
兄弟 | 範永、範基、永禅、源頼国室 |
妻 | 正室:小式部内侍(藤原能通の娘) |
子 | 良綱、清家、藤原頼宗家女房、永綱、季仲、永賀、藤原知綱母、藤原公基室、藤原忠綱室、女子 |
藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭・藤原中清(仲清)の子。官位は正四位下・摂津守。
経歴
[編集]後一条朝初頭の長和5年(1016年)六位蔵人に補せられる。修理権亮・式部大丞を経て、寛仁3年(1019年)従五位下に叙爵し、翌寛仁4年(1020年)甲斐権守に任せられる。治安3年(1023年)春宮・敦良親王の春宮少進となるが、のち伯耆守を兼ね、長元3年(1030年)治国の労により従五位上に叙せられた。翌長元4年(1031年)正五位下。
長元9年(1036年)4月に敦良親王が即位(後朱雀天皇)すると、同年7月に範永は従四位下に昇叙される。翌長元10年(1037年)尾張守として地方官に転じ、長久4年(1043年)安福殿造営の労により従四位上に叙せられた。
後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)大膳大夫として京官に復す。天喜元年(1053年)但馬守に任ぜられると、康平5年(1062年)阿波守、康平8年(1065年)摂津守と後冷泉朝の中盤以降は専ら受領を務め、この間の天喜4年(1056年)正四位下に至る。また、康平4年(1061年)には太政大臣・藤原頼通の七十賀に参会している。
歌人として
[編集]受領層の歌人集団・和歌六人党では指導的立場にあり、相模・能因・橘俊綱を始め多くの歌人との交流が知られる。長久2年(1041年)『弘徽殿女御歌合』、永承5年(1050年)6月の『加賀院歌合』、天喜4年(1056年)『皇后宮寛子春秋歌合』等に参加。康平6年(1063年)『公基朝臣歌合』では判者を務めた。『後拾遺和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に計30首が入集[1]。家集『範永朝臣集』がある。
官歴
[編集]注記のないものは『範永朝臣集』による。
- 長和5年(1016年) 11月25日:六位蔵人
- 寛仁元年(1017年) 8月20日:修理権亮
- 寛仁3年(1019年) 正月23日:式部大丞。4月7日:従五位下
- 寛仁4年(1020年) 3月28日:甲斐権守
- 治安3年(1023年) 2月12日:春宮少進(春宮・敦良親王)
- 万寿2年(1025年) 2月20日:見兼伯耆守[2]
- 長元3年(1030年) 正月28日:従五位上(治国)
- 長元4年(1031年) 11月25日:正五位下(春宮御給)
- 長元9年(1036年) 7月17日:従四位下。11月8日:近江権大掾[3]
- 長元10年(1037年) 正月23日:尾張守
- 長久4年(1043年) 正月24日:従四位上(造安福殿賞)
- 寛徳2年(1045年) 4月28日:大膳大夫
- 天喜元年(1053年) 8月19日:但馬守
- 天喜4年(1056年) 2月22日:正四位下(自四条宮幸一条院左大臣家司賞)
- 康平5年(1062年) 正月30日:阿波守
- 康平8年(1065年) 6月13日:摂津守[4]
- 延久2年(1070年)頃:出家[5]
系譜
[編集]後代、一子・良綱の子孫が高倉家、堀河家、樋口家として堂上家に列した。