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藤原範永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原範永
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 正暦4年(993年)頃
死没 不詳
改名 範永→津入道
官位 正四位下摂津守
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇
氏族 藤原北家長良流
父母 父:藤原中清、母:藤原永頼の娘
兄弟 範永、範基、永禅、源頼国
正室:小式部内侍藤原能通の娘)
良綱清家藤原頼宗家女房、永綱季仲、永賀、藤原知綱母、藤原公基室、藤原忠綱室、女子
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藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族歌人和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭藤原中清(仲清)の子。官位正四位下摂津守

経歴

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後一条朝初頭の長和5年(1016年六位蔵人に補せられる。修理権亮式部大丞を経て、寛仁3年(1019年従五位下叙爵し、翌寛仁4年(1020年甲斐権守に任せられる。治安3年(1023年)春宮・敦良親王春宮少進となるが、のち伯耆守を兼ね、長元3年(1030年)治国の労により従五位上に叙せられた。翌長元4年(1031年正五位下

長元9年(1036年)4月に敦良親王が即位(後朱雀天皇)すると、同年7月に範永は従四位下に昇叙される。翌長元10年(1037年尾張守として地方官に転じ、長久4年(1043年安福殿造営の労により従四位上に叙せられた。

後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年大膳大夫として京官に復す。天喜元年(1053年但馬守に任ぜられると、康平5年(1062年阿波守、康平8年(1065年摂津守と後冷泉朝の中盤以降は専ら受領を務め、この間の天喜4年(1056年正四位下に至る。また、康平4年(1061年)には太政大臣藤原頼通の七十賀に参会している。

延久2年(1070年)頃に出家津入道と号した。

歌人として

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受領層の歌人集団・和歌六人党では指導的立場にあり、相模能因橘俊綱を始め多くの歌人との交流が知られる。長久2年(1041年)『弘徽殿女御歌合』、永承5年(1050年)6月の『加賀院歌合』、天喜4年(1056年)『皇后宮寛子春秋歌合』等に参加。康平6年(1063年)『公基朝臣歌合』では判者を務めた。『後拾遺和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に計30首が入集[1]。家集『範永朝臣集』がある。

官歴

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注記のないものは『範永朝臣集』による。

系譜

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後代、一子・良綱の子孫が高倉家堀河家樋口家として堂上家に列した。

脚注

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  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 『小右記』
  3. ^ 『範国記』
  4. ^ 『勅撰作者部類』では紀伊守
  5. ^ 『朝日日本歴史人物事典』

出典

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外部リンク

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