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藤原真先

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原真先
時代 奈良時代
生誕 8世紀
死没 天平宝字8年9月18日764年10月17日
改名 執弓→真先
別名 真光
官位 正四位上参議
主君 聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇
氏族 藤原南家仲麻呂流
父母 父:藤原仲麻呂、母:藤原宇比良古藤原房前の娘)
兄弟 真従真先訓儒麻呂朝狩小湯麻呂刷雄薩雄辛加知執棹真文徳一、児従、東子、額
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藤原 真先(ふじわら の まさき、? - 天平宝字8年〈764年〉)は、奈良時代公卿。名は真光とも記される。初名は執弓氏姓は藤原朝臣のち藤原恵美朝臣。藤原南家太師藤原仲麻呂の次男。官位正四位上参議

経歴

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天平勝宝9歳(757年)3月に父の藤原仲麻呂の推す大炊王が孝謙天皇皇太子になり、5月に仲麻呂が大臣に准じる紫微内相に就任すると同時に、真先も従五位下叙爵する。

天平宝字2年(758年)8月に大炊王が即位淳仁天皇)。仲麻呂とその子息は藤原恵美朝臣の美称に改姓するとともに、仲麻呂は太保右大臣)に任ぜられ、真先も従五位上・兵部大輔に叙任される。その後も仲麻呂の威光を背景に、天平宝字3年(759年)従四位下、天平宝字5年(761年)従四位上兼美濃飛騨信濃按察使と急速に昇進し、天平宝字6年(762年)2月に弟の訓儒麻呂朝狩とともに参議に任じられ公卿に列す。同年12月には正四位上大宰帥に叙任される。

その後、孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立が深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)9月に反乱を起こそうとする。しかし、事前に計画が漏洩して孝謙上皇側に先手を打たれて御璽駅鈴を奪われてしまう。真先は仲麻呂に従って平城京を脱出して近江国へ入る。仲麻呂一族は三尾(近江国高島郡)の古城に拠って官軍と戦うが、敗れる。9月18日に真先は官軍によって琵琶湖畔で一族とともに斬られた。(藤原仲麻呂の乱

かつては名を真光とすることが多かったが、『大日本古文書』には真前との記載があり、真先が正当とされている(野村忠夫による[要出典])。

人物

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万葉集』には、天平勝宝9歳(757年)に兵部大丞大原今城が自邸で大伴家持に伝誦した、播磨介時代の執弓作の和歌が採録されている[1]

官歴

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続日本紀』による。

系譜

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尊卑分脈』による。

脚注

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  1. ^ 『万葉集』巻20, 4482。
  2. ^ 『万葉集』巻20, 4482。
  3. ^ 『大日本古文書(編年文書)』15巻131頁

参考文献

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  • 宇治谷孟『続日本紀 全現代語訳(中)』講談社講談社学術文庫〉、1995年。
  • 薗田香融「恵美家子女伝考」『日本古代の貴族と地方豪族』塙書房、1992年。ISBN 978-4-8273-1086-3
  • 木本好信『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』高科書店、1993年。
    • 木本好信『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』志学社〈志学社選書〉、2021年。ISBN 978-4-909868-03-9。 ※書き下ろし原稿を加えた復刊。
  • 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈』全4篇、吉川弘文館新訂増補国史大系〉。