藤原有蔭
表示
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
---|---|
生誕 | 天長元年(824年) |
死没 | 仁和元年10月2日(885年11月12日) |
官位 | 従四位下、左少弁 |
主君 | 文徳天皇→清和天皇→陽成天皇→光孝天皇 |
氏族 | 藤原南家乙麻呂流 |
父母 | 父:藤原高扶、母:坂上関守の娘 |
兄弟 | 有年、清夏、有蔭、清景 |
妻 | 多治縄主の娘 |
子 | 恒忠、忠仁、忠房 |
藤原 有蔭(ふじわら の ありかげ)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原南家乙麻呂流、陸奥守・藤原高扶の子。官位は従四位下・左少弁。
経歴
[編集]文徳朝前半に大宰少監を務め、文徳朝末の天安2年(858年)従五位下・肥前守に叙任される。
清和朝に入り、貞観4年(862年)民部少輔として一旦京官に復すが、翌貞観5年(863年)には上野介を兼任し、まもなく大宰少弐次いで近江介に転任するなど、短期間に地方官を転々とした。のちに散位を経て、貞観11年(869年)伊勢権守に任ぜられる。
元慶4年(880年)清和上皇の崩御にあたり、固関使として近江国に派遣される(この時の位階は従五位上)。元慶8年(884年)2月に光孝天皇の即位に伴い正五位下に叙せられ、同年中に従四位下・左少弁に叙任された。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 仁寿3年(853年) 7月1日:見大宰少監[1]
- 時期不詳:正六位上
- 天安2年(858年) 閏2月13日:従五位下、肥前守
- 貞観4年(862年) 正月13日:民部少輔
- 貞観5年(863年) 2月10日:兼上野介。2月16日:大宰少弐。3月20日:近江介
- 時期不詳:散位
- 貞観11年(869年) 正月13日:伊勢権守。11月11日:伊勢権守
- 時期不詳:従五位上。散位
- 元慶4年(880年) 12月5日:固近江関使
- 時期不詳:信濃守
- 元慶8年(884年) 2月23日:正五位下。5月26日:左少弁。11月25日:従四位下
- 仁和元年(885年) 10月2日:卒去[2]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
- 父:藤原高扶
- 母:坂上関守の娘
- 妻:多治縄主の娘
- 男子:藤原恒忠
- 生母不詳の子女
- 男子:藤原忠仁
- 男子:藤原忠房