藤原忠隆
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康和4年(1102年) |
死没 | 久安6年8月3日(1150年8月26日) |
官位 | 従三位、非参議 |
主君 | 白河上皇→堀河天皇→鳥羽上皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 | 父:藤原基隆、母:藤原長忠の娘 |
兄弟 | 忠隆、隆頼、雅隆、経隆、藤原成通室、藤原信通室、美福門院女房少将局 |
妻 |
藤原栄子(藤原顕隆の娘) 藤原公子(藤原顕頼の娘) 藤原季孝の娘 |
子 | 隆教、基成、信頼、家頼、信説、近衛基実室、俊成、信家、尋忠、藤原隆季室 |
藤原 忠隆(ふじわら の ただたか)は、平安時代後期の公卿。藤原北家中関白家、非参議・藤原基隆の長男。官位は従三位・非参議。
経歴
[編集]院庁の年預を務めるなど、鳥羽院政期を代表する院近臣として活躍した。また鷹狩を好み、馬術にも優れるなど、武の道においても一目置かれる存在であり、平忠盛ら武人とも広く交流した。信西も『本朝世紀』の中において「数国の刺史を経て家富財多し。性、鷹、犬を好む。人がため施しを好み、その報いを望まず。世、その態度に伏す」と述べ、その器量の大きさに称賛を送っている。
忠隆の武を好む資質を受け継いだ四男・信頼は、後年に平治の乱の首魁となる。
官歴
[編集]- 天永2年(1111年):丹波守
- 永久2年(1114年):従五位上
- 永久4年(1116年):右兵衛佐
- 元永元年(1118年):但馬守、正五位下
- 保安3年(1122年):右近衛少将、左近衛少将
- 保安5年(1124年):従四位下
- 大治元年(1126年):従四位上、備中守
- 大治2年(1127年):左近衛少将を辞す
- 大治3年(1128年):正四位下、大膳大夫
- 天承元年(1131年):伊予守
- 保延5年(1139年):播磨守
- 永治元年(1141年):伊予守再任、皇后宮亮
- 康治2年(1143年):大膳大夫を辞す
- 天養2年(1145年):内蔵頭、正四位上
- 久安4年(1148年):従三位・大蔵卿
- 久安5年(1149年):皇后宮権大夫、美作権守